1923~1930離陸の時代

 1923~1930山口文象の離陸の時代  

              (編集制作 伊達美徳

 関東大震災(1923年)は、建築家として生みおとされる山口文象の呱々の声となった。この世紀の大事件を契機にして、彼の身辺はあわただしく展開を始める。
 震災の年、エリート集団の「分離派建築会」の同人に迎えられ、その得意と緊張とそして気負いは大変なものであったろう。ついに旧世界を脱して新世界がほほえみかけてきたのである。
 その余勢をかって震災の煙がまだおさまらぬ中で、製図工仲間を率いて「創宇社建築会」を起したのであった。それは先に新世界に渡ったものとして、旧世界へ自らさしのべた手であり、ともに分離派建築会のような新世界のロマンにひたろうと、山口は思っていたのであろう。
 震災直後に、雨後のたけのこのごとく数多くの芸術集団が発生し、彼らと交流して山口の世界は広がっていった。
 震災復興のため、内務省に帝都復興院が設けられると、上司だった山田守がその橋梁課に移った。その山田のひきで嘱託技師としてなり、東京や横浜の川に架ける数多くの橋梁デザインにたずさわることになった。
 数年後にはダムのデザインにかかわり、建築家として土木デザインに積極的に関わった先駆者の一人といえる。
 昭和に入った年から、分離派建築会で縁の石本喜久治のもとで朝日新聞社の現場での設計にたずさわり、この頃から実際に自分で建築作品をつくるようになる。
 山口が建築家として出発をした時期といってよいであろう。
 石本建築事務所創立時の設計主任となり、白木屋デパートや朝日新聞社員クラブ等の設計にたずさわり、めきめきと腕をあげていく。その成長ぶりは、当時のスター建築家の石本をして、ライバル視させるほどになった。
 この頃の、建築、土木、美術、文学そして左翼活動などの幅広い交流から、山口の上昇志向に追い風が吹きはじめて、この後の建築家であり運動家の山口文象を支えることとなる。
 ところが創宇社建築会の活動は、当初の山口の思わくとちがって、甘美であるはずの新世界へ上昇するのではなく、時を経るにつれて社会運動の様相を呈してきた。
 それはそれで運動家として旗を振ることは、彼にとって不得手というわけではないが、気がついてみると、脱出したはずの旧世界からの出口近くまで戻ってしまったようだ。
 そこで彼は、ヨーロッパに渡るという、実に壮烈なテイクオフを実行したのであった。
 1930年という時代、それを当時の建築界あこがれの国ドイツへ、しかも世界的名声の建築家ワルター・グロピウスのもとに学ぶことで、彼は新世界へのテイクオフを遂げることになる。(伊達美徳)

1923年 大正12 21歳

・山田守に認められて建築設計に携わる
 この頃から上司の山田守に認められて、製図だけでなく建築デザインにも携わるようになる。山口の職場の当時の同僚で、後に創宇社建築会同人となる竹村新太郎から編者は聞いたことがある。
「高等官でない者でデザインにタッチできたのは山口だけだろう。それだけその力量を認められていたのだろう。あまり大きい仕事はしていないが、浅草馬道の郵便局は、震災以後の南京下見のバラックだったが、なかなかよい作品だった」(「竹村新太郎氏の話を伺う快記録」1976 RIA)
 山口は後に回想して、元創宇社仲間と語っている。
 「あの当時の震災前の営繕課の設計のプロセスをお話ししますとね、高等官の岩元、吉田、大島だとか東京帝国大学でた……その高等官技師がみな基本プランをやって、百分の1のエレベーションをこしらえて、それを階級下の高等工業、早稲田でた技師たち、あるいは技手か、高等官になれない技手、それがディテール書いて、それをわれわれ小僧がトレースしたわけですよ。……綺麗にインキングしてね……。ボクは一番はじめのスケッチが今でもありますけどね。釧路に郵便局ができましてね、はじめて山田守が私にデザインしろって、小僧ながら釧路の郵便局を……それは、うちのスケッチブックに描いてありますけどね」(「歴史の快記録」竹村文庫)

 山口の遺品に古ぼけたスケッチブック(11×18センチ)があり、なかに「くしろ すけっ


ち 12.1.24」とある釧路郵便局らしい建築ファサードの鉛筆描きスケッチパース(右図)がある。他にも大正12年1月から7月の書き込みのスケッチ数葉などがあるほか、日本建築史の講義らしいメモ書き、短歌、歌舞伎舞台スケッチ、「聴講願」等がある。
 自作らしい短歌2首は、「青丹よし とはにかわらぬ常盤木に けふふりかかる雪のはかなさ 12.1.25」、「よくきくと 待ちかねてたる薬にて 着いて喜ぶ母のいとしき 12.2.3」

・建築史家・伊東忠太の講義を聴講
 スケッチブックにある「聴講願」の下書きらしいものは、日本建築史の講義についての東京美術学校長正木尚彦宛である。東大で伊東忠大の講義を聴講したという山口の回想は、東京帝大と美校の講師を兼任していた伊東の、美校での講義かもしれないが、時期がはっきりしない。伊東忠太に関する山口の後年の回想がある。
 「私は東大の講義を聞いているのです。それも一番偉い伊東忠太先生の東洋建築史を聞いているのです。いま。そんなバカなことないですね。とにかくもぐり込んでいるんです。……それが絆になりまして、伊東先生は私を学生だと思ったものですから、私がいろいろ質問をすると一生懸命に説明してくれました。私が日本建築史を書こうと思ったのはその当時なんですよ。……先生が「じゃ原稿ができたら持ってこい」というので、私はいい気になりまして、実測をしたりなんかして原稿を書いたんです(笑い)。……そうして原稿を書いて持っていったら「面白いから出そうじゃないか」というので出すことになりました。で、その時代に早稲田系の洪洋社という建築専門の出版社がありまして、そこで出版するように伊東先生が心配してくれましたんですが、それが震災ですっかり焼けちゃったんです。洪洋社も焼けましたし、校正刷りまでやりましたものが全部焼けたんですよ」(「兄事のこと」1976)

・分離派建築会の会員となる
 東京帝国大学卒業の若手エリート建築家たちが結成した分離派建築会は、6月に第三回展覧会を開催したが、山田守のひきで山口はこの頃から会員あつかいされるようになったようだ。
 このエリート集団に、一介の製図工の山口が末席に加わった意義を、建築史家の河東義之はこう論じている。
「岡村蚊象が正式に分離派建築会の会員になったのは、大正12年6月第三回展の頃からとされる(13)。すでに濱岡(蔵田)周忠が第二回展から、大内秀一郎が第三回展から加わっており、岡村が新会員として出品したのは第四回展(大正13年11月)からであった。それにしても彼はまだ20歳を越えたばかりの一製図工にすぎなかった。その彼が、東京帝大出身のエリート集団であった分離派建築会の仲間に加えられたということは、山田守の強力な支持があったとしても、その才能と実力に相当高い評価が与えられたことを示している。岡村自身にとっても、それは初めてひとりの建築家として認められたという点で、画期的な出来事であったにちがいない」(「建築家山口文象人と作品」1982)

・関東大震災で被災するも無事
 山口と竹村新太郎から編者が直接に聞いた話では、9月1日のこの日、レンガ造の逓信局庁舎は大きなブロック状に崩れたが、この日は局内で営繕課の絵の展覧会があり、山口は瓦礫の中から自分の絵をひっぱりだして持ち抱え、浅草の自宅に帰ろうと歩き出したが、火の勢いが強すぎて、絵も捨てて、結局自宅には帰れなかったという。

・創宇社建築会を旗揚げ
 10月ごろ、山口がリーダーとなり、逓信省営繕課の技手や製図工の仲間たちと、「創宇社建築会」を結成した。
 創宇社創立時の同人は、最年長の山口(当時は岡村蚊象)を筆頭に、専徒栄記、小川光三、梅田穣、広木亀吉の5人、18歳から21歳までの営繕課で同じ職場の製図工仲間であり、いずれも職業学校や夜学などの速成教育で実利的な建築技術を学んだ若者だった。
 その創立について、半世紀の後に元創宇社仲間が集っての座談会記録があり、山口は設立の動機を語る。
 「どういうきっかけで梅田や竹村なんてみんな集まってきたか、はっきり覚えていませんけれどね。さっきお話ししたような営繕課の空気のなかで、身を寄せ合ってたという、話し合っていたということが原因だと思うんですね。
……創宇社を具体的にやろうとして始めたのは相談がだんだん固まったのは、震災直後だったんですね。震災直後の9月半ば頃、私ははっきり覚えていますけど、その当時は逓信省の営繕課は全部やられたものですから、逓信省全部分散して事務を執ることになって、営繕課は丁度今の吉田先生の設計された中央郵便局の、まだ中央郵便局は工事中だったので……あの隣の場所にバラックをこしらえましてね、そこへみんな営繕課の連中が集まった。地震は9月1日で、2日、3日あたりまではだれも集まらなかった。だんだん3日あたりからボツボツ焼け跡へレンガの壊れたところへ立て看板がしてあって中央郵便局の隣のバラックにみんな集った。それでまあ、ああいうショックの後では、やっぱりなにか人間が呼び合って助け合っていこうじゃないかって空気が醸成されたと思うんですね。それで、まあ、現在われわれは何かしなけりゃならんということで、小僧さんたちが集って、やろうということになったわけです。たしか9月15日か16日くらいですかね。その間に話がだいたいまとまってきて、そいじゃあ宣言文を書いたり、みんなで相談して、梅田の詩が宣言文になったわけです。
……だから非常にこの震災のショックって言うものがね、創立を早めた、と、今考えられますね。
……私自体は個人的に山田先生と逓信省で知り合って、それで先生の分離派に入って、そして何か研究会とかある場合に必ず私はでていたのですが、そういうことが当時は非常にバラ色で、こういう先輩を持ってありがたいと一生懸命に和したんですが、やはりなかで建築家としてのエリートたちの考え方とわれわれ小僧の考え方は違うんだという、なにかそこに違和感があったわけですね……分離派に対するいうロマンチシズムに対するひとつの何か意識の下にある批判というものが、創宇社の核となっているんだと思うのです」
 しかし、同じ場での梅田穣の発言はニュアンスが異なる。
 「そりゃ山口文象はね、意欲的ですよね、要するに鬱勃たるあれがあったと思うんですよ。……(しかし自分たちは)分離派に抗してやろうという意図はなかったような気がするんですよ。……イデオロギーなんてむしろ作品にも出ていないし、とにかく早くやろうじゃないかと、……綺麗な建築をね、宇宙に充満さしてやろうじゃないか、創宇社って名前付けたしね、そういう意図なんでね、造形運動だと思うんですよ。……潜在意識としてはあるかもしれませんが、そういう風なイデオロギー的なひとつの反抗精神てものは別にない、むしろ分離派の影響はいっぱいに受けてやってきたということかね、ずーっとその」(「歴史の会記録」竹村文庫)

・創宇社第一回展を開催
 創宇社建築会第一回展覧会を、11月24日から28日まで銀座十字屋楽器店(今和次郎のバラック装飾者設計)で開催した。分離派に倣って展覧会活動からはじめたのである。山口は会場の手配、ポスター制作など準備に尽くし、「音楽と野外劇のために」と題する劇場計画案を出品した。
 その創宇社建築会第一回展目録には、分離派建築会に倣うロマンチックきわまる宣言文(梅田穣の原案)が掲げられている。
「我等は古代人の純情なる/創造の心を熱愛し、模倣てふ/不純なる風潮に泣き/永遠の母への憧れをもて/頽廃と陳腐とにただれたる/現建築界の覚醒を期す。/我等は生の交響楽一全宇宙に/我等の生命、美しき「マッス」を/見出すべく専心努力する。/創宇社宣言」

 初めての展覧会について山口は当時の雑誌に書く。(「建築思潮」1924.4)
 「帝都復興の気運急なる今、吾々は芸術味豊かな美しい東京市を建設すべく起たなければならないではありませんか。それが建築家としての「つとめ」だと思います。創宇社はその「つとめ」を果すべく自己の微力も省ず第一の仕事として作品によって私たちの意見を発表したのです。何分こうした仕事に経験を持たない私たちのことですからとても充分には出来ません。しかし若々しい愛と芸と感激とに満ちた展覧会にまづまづ努力はしたのでしたが……私たちの魂は眠りかけてゐました。それはほんとうに怖ろしいことです。若しも目醒めずそのまま眠ってしまったなら、一生建築の本道を歩む創造の嬉びは得られなかったことでせう。幸にも心の屍は開かれて清新なる閃光は投げかけられ、魂は目醒め道は開けるのを感じました」

●作品:音楽と野外劇のために(劇場計画案、「建築新潮」24・2月号)


1924年 大正13 22歳 

・創宇社第二回展を開催
 創宇社建築会第二回展覧会(4月13日~28日)は、おりから開催された「帝都復興創案展覧会」と兼ねて開催した。山口はここに「丘上の記念塔」、「K氏の住宅」、「劇場」の各計画案を出品した。
 竹村新太郎が、後年になって書いている。(「竹村文庫だより9」1995)

 「山口さんの場合はコンテとか木炭使ったら実に素晴らしいデッサン力があるんですね。それはもう魅力的なものです。「丘の上の記念塔」っていう作品、それを見て創宇社に入りたいというふうになった人が2人います。御茶ノ水の聖橋なんかでも山口さんの描いたパースがありますが、実に魅力的な絵です。ただ、色で仕上げる場合は弟(栄一)が必ず動員された」

 帝都復興創案展は、国民美術協会(中條精一郎会長)主催の大規模な合同展覧会で、創宇社は第二回展を兼ねて参加した。分離派建築会、メテオール、ラトー、総合美術協会、揚凰会、庭園協会、木材工芸学会、マヴォ、国民美術協会工芸部が加わり、後に有名な建築家となる中村順平、西村好時、石原憲治等も都市計画提案を行なっている。
 当時の前衛美術家である日本歯科医学専門学校の中原実が、飯田町の学校内に「九段画廊」を開設した(10月)。中原と仲田定之助(美術評論家)らがインフレのヨーロッパから安く買ってきた、カンディンスキーやパウル・クレー等の現代美術作品の展覧会を行ない、山口もそれを見て感激したという。その仲田の推薦で、中原は後に山口に歯科医専付属病院の設計をさせることになる。
 これら震災直後に雨後のたけのこのように発生した美術運動との付き合いが、山口を建築家として育てることになる。

・内務省復興局橋梁課の嘱託技師になる
 この年2月、内務省に復興局が設置され、東京・横浜の震災被害150余の橋梁復興が土木部橋梁課の仕事だった。耐震・耐火が主眼であるのはもちろんだが、「復興帝都に相応はしからしめる為には意匠、形式、照明等も等閑に附すべきでない」(帝都復興史)の見地から建築家の協力が求められた。山田守が6月に逓信省を辞してこの橋梁課に移り、そのひきで山口も移籍した。ただし、当時の復興局職員名簿に山口(岡村)の名はないので、臨時雇いかもしれない。
 山口は、清洲橋、八重洲橋、数寄屋橋、浜離宮南門橋、八重洲橋等のデザインにたずさわるが、仕事内容は橋のパースを描いたり、親柱、欄干、照明器具等のデザインであったようで、竹村新太郎の話では、創宇社仲間の渡刈雄や野口巌たちも手伝ったという。
 東京大学保存の八重洲橋設計図の青図に、当時の山口の姓である岡村のサインがある。山田守デザインの聖橋のコンテによるパースのコピーがRIAにあるが、明らかに山口の手になるものであり、他にもコンテや鉛筆の山口らしいパースもある。この中の豊海橋(日本橋川)が後の黒部第二発電所の橋に酷似している。

 山口は後に回想して、長谷川尭に語っている。
「(初任給を)私は150円をもらいました。……東京、横浜の地図に全部しるしがつけてある。たいへんな数なんです。それで私のアシスタントを、私より年上でございましたが美術学校の人を2人、逓信省から1人といぅふうに集めまして、デザインばかりでなくて構造も知らなければならないというので、橋の勉強をいたしました。いま東大土木の名誉教授で福田武雄という先生がおりますが、一緒に勉強させてもらいました。いろんな橋をやりました。いま目ぼしいのは清洲橋だけでございます。それだけが残って、あとはもう尾羽打ち枯らして、風雪に耐えずはな欠けになっております。横浜へ行きますと、ときどきなつかしいのがあります。一番真剣になったのはやはり、なくなりました数寄屋橋と、それから清洲橋です。それから、いまの八重洲ロの東京駅がずっと掘割りになっておりましたですね、あそこに八重洲橋というのがありました。これはイタリアのボンテ・ヴェッキオのスタイルをとりましてやりました。これもこわされちゃいました。もう一つは、お話しました逓信省から浜離宮へ入るところに、ロマネスク風の橋がいま残っております。あれが一番最後だと思います」(「兄事のこと」1976)

 浜離宮正門橋と清洲橋の現地で、編者は山口から直接に話を聞いたことがあるが(1976)、前者は石の欄干手すり上部のカーブについて、後者は橋桁の見つけを薄くすることに、それぞれ腐心したとのことだった。


聖橋


清洲橋

・日本電力技師を兼務、石井頴一郎と出会う
 橋梁課の田中豊課長の紹介で、当時の電力会社日本電力の嘱託技師を兼務することになった。橋梁のデザインからダムのデザインへと、土木デザインに建築家として積極的にかかわる。日本が豊かな時代の土木設計には、建築家の協力を得てシビックデザインに力をいれたのであった。
 この頃についての山口の回想。(「建築をめぐる回送と思索(兄事のこと)」1976)
「復興局の橋をやっている間にまたひとつ口がかかりまして富山県の高岡からずっと庄川のほうへ入ってまいりますと砺波郡というのがあります。そこに庄川がありまして、庄川ダムをつくる、そのデザインを頼まれました。これは大阪に日本電力という大きな電力会社がありまして、そこでやることになって、そこの技師長の石井頴一郎先生が、ちょうど田中豊先生の2年先輩で、その石井先生が復興局へ来て「土木のやつらはしょうがないが、建築家がここで働いているらしいけれども、その人間をひとつ紹介してくれ」というわけで、私が紹介されまして、日本電力の嘱託になりました。これがまた100円ふえまして、たいへんな収入になりました(笑い)。それで庄川のデザインをいたしました。これがきっかけになりまして、今度は日本電力で黒部川の開発をしなきゃいけない、……」
 石井頴一郎は、後に関東学院大学教授となった土木エンジニアで、のちのちまで山口のよき支援者であった。

・分離派建築会第四回展に出品
 11月1日から7日まで分離派建築会第四回展覧会が開催され、山口は「丘上の記念塔」「住宅」「大連中央停車場案」を、分離派展に会員として初めて出品した。その手放しの喜びを詩の形で「制作する心」と題して書き記す。
 「私の生命の底にはあらゆる障害を突さ退けてまつしぐらに驀進しようとする奔流の如き情熱が狂い駆け回り/血は沸き返り胸は高鳴る/さうして私の筋肉は真実に生きんとする痛苦の刺激によつ異様なる緊張を増す。/自己の内生を真実に生長させて行かんとする痛苦!!/これこそは求道者の歩まなければならない一筋道である。/その前途にはあらゆる迫害と誘惑とが手を広げて待つているであろう。/激流・絶壁さうして険しい峠も数知れずあるに違いない。/無知蒙昧な暴虐者は求道者の弱い心に突さきつて身動き出来ない程惨めに鞭打つであらう。/こうして求道者の心にはいつも安逸は与えられない……只貴い真実への希讃があるのだ。/我々の歩むこの一筋道は不安と恐怖とを以つてしては到底進むことは出来ない。/我々は勇ましく進もう。/岸壁に突き当たって跳ね返される痛苦を歯を食いしばって忍耐する勇気が必要だ。/この勇気だけが弱い私の道伴れなのだ。/さうだ私はこの真実に生きんがための痛苦と、それに耐ゆる勇気とを持つて純真な建築制作のために全生涯を捧げよう。/求道の血に撚ゆる使徒が無上歓喜の心を抱いて神に己れの全生涯を捧げるそれのようにだ。/私は言葉無く信念なく精進なき人によつて偉大な芸術が完成されようとは思はない。……・
 ……私が今日こうして、建築の本道を歩む喜びを得たのは一重に、分離派建築会先輩諸氏の親切な御指導の賜物であると確く信じています。私はここに私を今日まで育んで下された分離派建築会に深甚なる感謝の意を表し、而して新入会員として主義のために、たゆみなく倒れるまで死にまで期して戦うことを誓います」(「分離派建築会作品集第三」1924)

●作品:「丘上の記念塔」「住宅」「大連中央停車場案」(分離派建築会第4回展覧会)、松田邸計画(スケッチ図面現存、実現していれば山口の処女作だが不明)

●著述:制作する心(「分離派建築会作品第三」岩波書店1924)、「十月某日の日記」(「建築画報」24・1月号)、「創字社と其の第1回展」(雑誌「建築新潮」24・2月号)、アンケート「建築士法案についての回答」(「建築画報」24・4月号)、「舞台について」(「写真報知」24・8月5日号)、「創宇社第三回展覧会と吾々の態度」「住宅地域に建てられる商店の設計」(「店舗と住宅」24・12月号)

1925年 大正14 23歳 

・創宇社第三回展を開催
 7月17日から21日まで創宇社建築会第三回展覧会を開催し、山口は「商店の設計」、「音楽堂」、「住宅(其ノ一)」「住宅(其ノ二)」、「コンクリート橋の設計」、「橋の柱燈」、「建築」、「独逸男ヒンケマン」(舞台装置模型)を出品した。
 このとき山口は自問を雑誌に書いている。
 「私達は常に純一なる思索を続けて、静かに自己の内生に沈潜する事を心懸けてゐる。自己の個性を安全に擁護するために、如何に貧弱な自己であっても、正直に嘘りなき赤裸なる姿を、遽巡することなく群集の前にさらけ出す勇気を振るひ起させるために、……今日まで私達は思索の苦しみを持たない。建築家の手になる作物のいかに醜悪であるかを余りに多く見すぎて来た。現代建築家の建築に対する不不真面目な態度にあきたらない不満を感じてゐる私達は、何故もっと真剣に思索しないのか?」(「建築新潮」1925.9)

 濱岡周忠(後に蔵田姓となる建築家)の当時の批評。
 「創宇社の作品全体を通じて、その総てに造形の意図は感じられるが、その造形の依って来る建築の力への体験の不満を感じることはかくされません。……プラン及び構造其の他の条件を解決しつつ更に人々の心に触れる形成をなすものこそ建築ではでしょうか。……もっとプランと形との必然性がなくてはならないといふことです」(「建築新潮)1925.9)

 舞台装置の「独逸男ヒンケマン」について山口の回想。
 「その時分は築地小劇場ですよ。村山の「朝から夜中まで」なんて築地でやりましたが、すばらしい舞台美術でしたね。……「ドイツ男ヒンケマン」をやろうとしたけど、弾圧でできなかった」(北鎌倉でのインタビュー1976)
 「あの舞台装置を村山知義、トムさんが「お前やれ」とかいって、私も模型こさえたりしました。村山君を中心に「マヴォ」というグループをつくっていました。あまりきれいな雑誌ではなかったですが、同じ名で機関誌をだしていました。それに私の模型の「ドイツチェ・ヒンケマン」の舞台装置の写真が載ってます」(「建築と演劇」(現代日本建築家全集11)1971)

 この年、竹村新太郎と実弟の山口栄一(東京美術学校に在学中)が創宇社同人に加わる。栄一は、短気な兄文象とは対照的なおおらかな人柄で、山口の仕事の誠実な協力者としての一生だった。
 竹村は、最後の創宇社同人として1995年に没するまで建築運動を続けた。所蔵する創宇社等の近代建築史関係の膨大な資料を、後に「竹村文庫」として「文庫たより」(10冊1987~97)を発刊して公開した。この年譜も竹村文庫や竹村から編者が直接聞いた話に負うところが多い。

●作品:大連駅本家設計競技に選外佳作二席に入選(弟の名で応募。分離派建築会第四回展「大連中央停車場」とは別案)、「商店の設計」「音楽堂」「住宅(其ノ一)」「住宅(其ノニ)」「コンクリート橋の設計」「橋の柱燈」「建築」(「建築新潮」9月号)、「独逸男ヒンケマン(舞台装置模型)」(創宇社建築会第三回展覧会)

1926年 大正15(昭和元) 24歳

・分離派建築会第五回展に出品
 分離派建築会第五回展覧会(1月27日~31日)に、山口は「市民会館」「数寄屋橋」「壁かけ」を出品した。      

市民会館

・単位三科を結成
 5月に結成した「単位三科」は、前年9月に解散した三科造形美術協会の再興を目指した美術団体で、前衛的な芸術至上主義的性格の強い活動をした。18歳から34歳までの34人の「単位」(会員)で構成され、創宇社から6人が参加した。会の中心の常務委員7人に、旧三科会員の中原実、仲田定之助、玉村善之助等とともに山口(岡村)もいる。

・竹中工務店に設計技師として入社
 分離派建築会のメンバーである建築家の石本喜久治は、当時、竹中工務店の建築技師として朝日新聞社屋(前年3月着工)の設計を担当していた。分離派建築会で出会った石本に、山口は腕を見込まれてスカウトされた。復興局の技師を辞して竹中工務店にして入社した。
 山口は、当時を後に回想して語っている。(「建築をめぐる回送と思索(兄事のこと)」1976)
 「橋が一段落つきまして、……そのころ分離派の石本喜久治さんが竹中工務店の技師だったものですから、……いろいろな会合で会っておりましたので、「おまえ、とにかく竹中へ来て朝日新聞を手伝わないか」「じゃ行きましょうか」ということで、竹中の設計部へ入りました。……入口の上に幅1m60で長さが5mのまぐさ石がありまして、これは伊豆の砂岩を張りつけました。そして下から見上げるとレリーフがあったんです。そのレリーフのデザインと彫り方を私がやりました。……それは親父に頭をなぐられながら教わったのみの使い方、かんな、さしがねの使い方、大工の技術、そういうものが基礎になりまして、わりあいに石屋の親父にほめられました。だから一つの基本の技術をやりますと、それが応用できて大体のことができる」 

朝日新聞社屋

・創宇社第四回展を開催
 日本橋の白木屋で開催した創宇社建築会第四回展覧会(10月22日~26日)に、山口は「面と線」、「ある建築草案」、「建築形態の究極?」を出品。この展覧会から建築界の反応も大きくなり、堀口捨己、佐藤武夫など八人もの批評が建築ジャーナリズムに載った。

●作品:数寄屋橋(東京・有楽町 復興局で担当)、浜離宮南門橋(3月 東京・港区 復興局で担当)、「市民会館」「数寄屋橋」「壁かけ」(分離派建築会第五回展覧会)、「面と線」「或る建築草案」(「建築新潮」26・12月号)「建築形態の究極?」(10月 創宇社建築会第四回展覧会)

●著述:アンケート「商店建築はどんなのがいいでせう?何れも可。何れも否」(「建築画報」1月号)、「偶話」(「建築画報」7月号)、「神奈川県庁舎応募当選図案漫評-その展覧会をみて」(「建築世界」8月号)、

★写真:分離派第5会展出品作品「市民会館」(53P)、「或る建築草案」(「建築新潮」26・12月号)、創宇社建築会第4回制作展覧会会場(建築画報26・1月号)
 

1927年 昭和2 25歳

・分離派第六回展に出品
 1月2日から26日まで開催した分離派建築会第六回展覧会に、山口は「工業地帯に建つアパートメント計画」、石本喜久治と連名の「楯石意匠」及び「鍛帳意匠」(いずれも朝日新聞社屋の仕事)を出品した。
 後年山口は、このアパート計画について、建築家・大谷幸夫に語っている。
 「……分離派建築会が非常にロマンティシズムの立場から引き受けちゃったでしょう。そういうものに対してぼくは非常に反発、まあ同じ会員でありながら非常な矛盾を感じたわけてすね。そして分離派建築会の展覧会にみなさんが出している作品とは別の、ちょっと違った異質の労働者の2万人アパートなんていう作品を出しているんですよ」(「建築」1962.6)
 後の1940年代になって、軍需工場付属の千人から2千人も収容する大規模な工員宿舎を設計しているは、あるいは偶然とはいえないかもしれない。

・石本喜久治建築事務所に移籍
 石本喜久治は、東京日本橋で三越とならぶ有名百貨店・白木屋の設計を受注して、竹中工務店から独立した。山口栄一の話(編者が直接に聞いた)では、清水組、石本、山口(途中辞退して石本を推した)などの5人のコンペにより、石本にきまったという。
 山口は石本に誘われて、創宇社同人の野口厳とともに石本事務所に入所したが、石本は京都に移って片岡・石本建築事務所を開設したので、在京の山口は主任技師として白木屋の設計監理にあたることになった。9月に郵船ビルに事務所を構えるまではスタッフも居なくて、品川区大井滝王寺の仲田定之助の貸家で、ほとんど創宇社の仲間たちで設計した。現・石本建築事務所に、山口の手になる迫力あるコンテの外観パースがある。

 編者が直接山口に聞いた話では、石本から送ってくる小さなスケッチをもとに設計した。立面的には水平線と硝子窓によるモダン建築であるが、入り口正面や内部は金ぴかコマーシャルデザインで、山口は嫌だったが指示のとおりにして、そのかわりに裏側は自分の好きにデザインしたという。裏側の立面には山口らしいプロポーションの良い構成が、取り壊されるまで残っていた。この建築は、27年9月着工、28年11月第1期が完成した。31年に増築、32年の有名な白木屋火事で改装、57年に坂倉準三設計の大改装で姿が一変した。後に東急百貨店に変わリ、ついに二十世紀とともに消滅した。

白木屋百貨店パース・山口画(石本事務所所蔵)

・大井瀧王子で創宇社仲間たちとともに生活
 白木屋の仕事を契機に、大井瀧王子の借家は創宇社同人のアジトになり、翌年に山口は母や妹たちとともにここに転居した。竹村の話によると、当時は、父がなくなってから山口が家族みんなを養っていたという。
 後になって竹村は、この頃のことを書いている。
 「山口さんの家が大井町の瀧王子というところにあったときに、海老原、広瀬の2人が直ぐ近くに越してきて、2人で1軒小さな家を借りて飯は山口さんの所に食べに行ってました。……直ぐそばに梅田穣の家があって、私たちのような若い者はたいてい山口さんの家に泊めてもらっちゃう」(「竹村文庫だより」1994.8)
 「大井町滝王子の四畳半の書斎で、読んでごらん、とブハーリン「史的唯物論」を貸してもらったのは私だけであったろう。滝王子の家には、コンペ制作のときだけでなくよく集った。一緒に銭湯にいき、落語をききに、絵具箱を担いでスケッチに、そして互いにその親兄妹とも親しむ。この時代には夜中、目覚しのベルで起きて読むという猛烈な勉強をしたが、ドイツ語学習、研究所へのデッサン通いはその前の頃、これらの合間に美しいペン捌きで、ベーター・べーレンスのたくさんの平面図を青図につくり、私たちにくれたりした」(「建築家山口文象人と作品」1982)

 建築家・海老原一郎も、その頃を人生劇場だったと回想する。
 「私は美校の一年二年と進むにつれて、岡村氏の創宇社建築展の造型コンポジションや舞台模型や、または実際の木造住宅の木割の鋭い確かさなど、腕の冴えにイカレっ放しであって、とうとう本所の実家の震災バラックを脱出して、卒業制作のアトリエの名目で大井町滝王子の岡村宅の裏側に月15円の家賃で借家をかり、山口家の母上や妹さんに食事その他のお世話になりながら、岡村氏と密着した朝夕を過ごすことになった。これは学友広瀬初夫(後年竹中設計部)と2人の協働であったが、その以前から同人として創宇社に加わっていたので、他の同人との会合も再三となり、後年山口のいう「人生劇場」的情景の中で山口を中心として、ワイワイガヤガヤと体をぶつけ合い互いに影響し合いながら社会状況の現実の下で、建築の指向する真実の方向を求めてグループとしてエネルギーを積み重ねていった。今にして思えばまたと得がたい青春の日々であったと思われる」(「建築家山口文象人と作品」1982)

・三科展で抽象演劇を演出
 先年に結成した単位三科主催の「三科新興形成芸術展覧会」を開催(6月3日~12日)し、山口の作品は、第一会場(日本橋千代田ビル)の造形作品展に「1950年計画中央航空機停車所計画」を出品し、第二会場の「劇場の三科展」(朝日講堂6月4~5日)では仲田定之助と共同演出で前衛創作劇「ファリフォトーン」を発表した。これは装置、照明、音楽による、人の登場しない抽象舞台構成であった。
 後年になって建築と演劇という座談会での山口の回想。(「現代日本建築家全集11・建築と演劇」1971)
 「私と仲田さんと2人が、作者で演出家でね。その創宇社のクループの人達は舞台裏のスノコに載ったりして、その劇やったんです。風船が飛んだり、光と音と形ですか、そういうものが舞台をコロコロ、パッパする。そういう抽象舞台というのをやったわけです。名前は「ファリフォトーン」というんでした。ファルベ、フォト、トーンと名をつけました」

★写真:三科展出品「一九五〇年計画中央航空機停車所」(53P)、ファリフォトーン(劇場の三科展、「建築新潮」27・7月号)、

・創宇社第五回展を開催
 新装なった東京朝日新聞社で開催された創宇社主催「無選共同建築展覧会」(12月7日~11日)は創宇社建築会第五回展覧会にあたり、山口は同展ポスターを制作し、「商店A」「商店B」「住宅」「橋畔に建つ休憩所」を出品。このうち「商店A」は「山叶商会」、「住宅」は「三宅やす子邸」(模型)であり、いずれも片岡・石本建築事務所での山口担当の仕事。
 この展覧会より同僚の河裾逸美が同人に参加した。河裾は後に、山口蚊象建築事務所創立時の最初の所員となる。


三宅やす子邸(石本喜久治・岡村蚊象)

●作品:安井曽太郎邸増築(東京・目白)、「工業地帯に建つアパートメント計画」「楯石意匠」「鍛帳意匠」(分離派建築会第6回展覧会、「建築新潮」27・3月号)、「1950年計画中央航空機停車場」(三科新興形成芸術展覧会、「建築新潮」27・7月号)、前衛創作劇「ファリフォトーン」(劇場の三科展、「建築新潮」27・7月号)、「商店A」「商店B「住宅」「橋畔に建つ休憩所」(無選共同建築展覧会、「新建築28・2月号、「建築新潮」28・1月号)

●著述:「橋梁を語る」(「工芸時代」9月号)

1928年 昭和3 26歳 

・分離派第七回展開催するも山口は出品せず
 分離派建築会第七回展覧会(9月16日~20日)は分離派最後の展覧会であるが、石本と山口は出品していない。「分離派建築会第七回展覧会号」(「建築新潮」1928年12月号)に、当時の会員全部として山田守や蔵田周忠など7名が記されているが、そこに石本と山口の名はない。

●著述(翻訳):「ヒルベルザイマー著 Internationale Neue Baukunst」(「アトリエ」9月号)

●作品:白木屋百貨店第1期工事(11月 東京・日本橋 片岡・石本建築事務所で担当)

1929年 昭和4 27歳 

・創宇社第六回展を開催するも出品せず
 朝日新聞社で開かれた創宇社建築会第六回展覧会(2月4日~10日)にも山口は出品していない。この頃は白木屋の工事監理でいそがしかったか、あるいは実践技術と展覧会発表の間の乖離になやんでいたのか。

・「合理主義反省の要望」を講演
 創宇社主催の第一回新建築思潮講演会(10月4日 丸の内生命保険協会講堂)で、山口は、「新建築に於ける自然弁証法的考察」、「新建築に於ける機械的唯物論批判」、「合理主義反省の要望」の三部から成る講演を予定していたが、時間の都合で「合理主義反省の要望」のみを講演した。ほかに仲田定之助、岡田孝男、谷口吉郎が講演した。
 当日の配布パンフレットに次のようにある。
 「明日の建築への指針とその製作に於ける最前衛的実践とは如何なる方法論的検討によって究明し獲得すべきであるか。自然科学的にであるか。社会科学的にであるか。はたまた他の何に依ってであるか。吾々が現代社会擦構の矛盾甚だしい現段階に立って、当面する問題はこれである。之等の与えられたる諸問題を克服し、新建築理論の樹立と、正統なるイデオロギーの把捉こそ、現代の建築家としての吾々の切実なる要望ではあるまいか」

第一回新建築思潮講演会ポスター(竹村文庫所蔵、「国際建築」29・11月号)

・唯物論的建築制作論を発表
 山口唯物的建築制作論三部作の第一論文「新建築における唯物史観」を発表、その書き出しはつぎのとおり。(雑誌「アトリエ」1929.9)
 「住宅は人間を入れる器と考えられたのは、過ぎた以前のことであり、現代ではコルビュジェの言う如く住居は「人間の住む機械」である。……過去の建築に於いては如何にすれば美しい建築が出来るかが問題であったが、新しい建築では斯様な美のための美はものの数でもない。只問題になるのは如何に簡単に、快適に、衛生的に、実用的、経済的に、要約すれば如何に合目的秩序的綜合を把握することが出来るかにある。即ち、前者が芸術的(ここでは普通謂われているのと同じ意味で)手工的特珠的個人的であるに対して後者は科学的、工業的、大量生産的、普遍的、社会的である。……」

・創宇社第七回展を開催
 山口は、創宇社建築会第七回展覧会(12月10日~16日)のボスターを制作し、「はなれの書斎」、「家具セット」を出品した。これは、この年竣工する仲田勝之助邸(仲田定之助の弟で当時朝日新聞勤務、江戸の絵師写楽の研究家)であり、建築家山口文象個人として最初の実作というべき作品である。
 第六回展あたりから、山口の出品は実現性をもったものとなるとともに、同人たちの作品のテーマが社会性を帯びたり技術志向となったりする。元同人たちが1972年に集った座談会の記録で、その頃の創宇社の悩みが語られている。
広瀬「しかし何か模型作ってデザインやってんのがバカバカしいと思ったね。別に意味はないしロマンチックで独り善がりやって、できもしないのに作品の上だけで夢だの描いて作品やってることに対して……」
渡刈「うん、マア模型を出し、展覧会やっていたんだけれども、これじゃあしょうがねえんじゃないかと、もっと実践的に飛び込まなくちゃダメじゃないかってことだったんだな、結局は」
海老原「第七回にはまったくもう作品ができなかったですよ。そりゃ覚えてる、だから展覧会やること自体がね、矛盾を孕みながらもやらなきゃならないみたいに、苦し紛れに。広瀬君は鉄骨住宅というまったく客観的な技術的だけに逃げちゃった、」(「歴史の会記録」竹村文庫)

・石本・片岡建築事務所を辞める
 山口は石本喜久治の下で、朝日新聞社社員クラブ、山叶商会、三宅やす子邸などを担当するかたわら、個人的には仲田邸、安井邸などの設計とともに創宇社の活動をしている。しかし、石本は創宇社の活動に批判的であり、脱退せよと言われた所員の野口と渡刈が腹を立て、6月に辞表を郵送して一方的に退職し、山口も石本と仲たがいして辞めた。この後、両人の確執が長く続いたようだ。
 この年、山口は画家安井曽太郎の紹介で、その絵のモデルをした野勢某嬢と婚約したが、2年後の山口の渡欧中に解消した。

●作品:「はなれの書斎」「家具セット」(創宇社建築会第7回展、「国際建築」30・2月号)、朝日新聞社社員クラブ(神奈川・鎌倉市 片岡・石本建築事務所で担当)、山叶商会(東京・日本橋 片岡・石本建築事務所で担当)、仲田勝之助邸

●著述:「明日の建築へ」(「アルト」4月号)、「批評の問題」(「建築世界」7月号)、「新建築における唯物史観」(雑誌「アトリエ」9月号)、「合理主義反省の要望」(「国際建築」29・11月号掲載)、「新興建築に就いて」(「近代生活」12月号)

●講演:「合理主義反省の要望」(10月4日 第一回新建築思潮講演会)、

 

1930年 昭和5 28歳

・渡欧のための準備
 山口がヨーロッパに行こうとした動機は、公式にはその旅費を負担した日本電力㈱の嘱託技師として、黒部第二発電所小屋ノ平ダムに関する調査であった。事実、カールスルーエ工科大学に権威者を訪ねている。このころ山口はダムの研究をしたらしく、RIA資料室には当時のダム専門書もある。
 個人的な目的は、ドイツの世界的建築家ワルター・グロピウスのもとでの修業である。グロピウスは1919年に、有名な造形教育のバウハウスをドイツ・ワイマールに創設し、日本から仲田定之助と石本喜久治がはじめて訪問した。25年にデッサウに移転し、山脇巌・道子夫妻が入学した。
 仲田は精力的にバウハウスを日本に紹介して、日本でもグロピウスの名は高く、山口は仲田や石本等と親しかったから詳しい情報を得ていたであろう。1928年にグロピウスはバウハウスを辞めて、ベルリンに建築事務所を開いていた。

 この年に建築家リチャード・ノイトラが来日し、その歓迎会(6月10日)に出席してグロピウスへの紹介状をもらったと、後年に山口は語っている。一方、竹村新太郎の話では、堀口捨巳がグロピウスへの紹介状を書いたという。(「歴史の会記録」竹村文庫)
 「グロピウスに紹介状書いてくれたのは、たしか堀口(捨巳)さんです。その紹介状の名刺かな、見せてもらった憶えがあります。そこにMarler und Architektと書いてある。Marlerというのは絵描きですね」

・新興建築家連盟創立に参画するも瓦解
 新興建築家連盟は、6月準備会、7月創立総会、10月20日第1回大会を開催した。都市計画・設計・技術・教育等の建築家たちを横断的に結び、互助組織としても活動しようと、当時の会としては最大の約百名が結集した。山口は創宇社建築会の代表として参加、幹事となり、その同人も全員参加して運動の次の展開を賭けた。
 ところが11月12日の読売新聞に、この連盟はナップ(全日本無産者芸術団体協議会)による赤化活動のひとつとして「建築による『赤』の宣伝」団体とのデマ記事が載った。会員は官憲弾圧を恐れて脱会者が続出、幹事からも解散提案があり、12月臨時総会で議論の末に存続と決まったが実態的には瓦解した。山口は脱退していない。
 この連盟結成の陰には東大新人会からの社会運動家・内田佐久郎が、解散の陰には建築学会会長の佐野利器がいたといわれる。(「戦前の建築運動:宮田吉蔵」『風雪』61東京開放運動旧友会1978)
 この頃のことを建築家・前川國男が回想して書いている。
 「新興建築家連盟は……その瓦解の早さに、僕はあっけにとられてしまった。何とまた、すごい世の中になったものだと思った。学校の先生など、内容証明付きの手紙でもって、退会届を出していた。僕は帰国早々だったから、そうしたことがよくわからず、……谷口君がいきなり僕の家にやってきて、今日、新興建築家連盟の会があるから一緒に行こうというのである。……僕もそこで幹事にさせられたが、全体は山口君がリードしていた。」(「建築家山口文象人と作品」1982)

・ウクライナコンペに応募するも落選
 12月締め切りでウクライナ・ハリコフ劇場の国際コンペがあり、創宇社同人が共作で応募したが落選した。竹村新太郎が発刊する「竹村文庫たより」(1995.9)に当時のことを書いている。
 「銀座の並木通りですか、あそこに4丁目から新橋に向けて左側に三ツ喜ビルという3階がマンサードになった木造の建物があって、その3階でソビエトのウクライナ劇場のコンペをみんなでやったことがあります。その時に一番若い方に入る今泉君が非常にスピードもあるし図を達者に描く。書き入れは全部英語ですから海老原がもつ。広木亀吉がやたらに窓を開けたがる。そんな大騒ぎをしながらコンペに出しましたけれど入選できませんでした」
 このコンペで4等入選した川喜多煉七郎は、後年この三ツ喜ビルに建築工芸研究所を開設し、雑誌「アイ・シー・オール」を刊行。


 ウクライナコンペ応募案パース(「国際建築」31・6月号)

・最後の創宇社展を開催
 最後となった創宇社建築会第八回展覧会(10月1日)は、18人の建築家が20作品を出し、山口は「紡績工場の女工寄宿舎提案」を出品した。このとき同人の梅田穣と広瀬初夫が共同で雑誌に書いている。(「国際建築」1930.11)
 「今回の展覧会(第八回展)を見て人々は、そこに一見しては誰の作品だか解らない同じ様な作品がならんでいるのを見たであろう。これは建築から個人の趣味、特殊技術、洗練性を除去して、建築をして純粋の科学的なものにまで高揚したものと感得しなければならない。然し乍ら若しも創宇社の運動が、新建築の理論と技術の獲得と宣伝とにあるならば、今回の展覧会をもってその運動は内面的には一応終りを告げたものと言わねばならない」

 この年の暮に山口の渡欧でリーダーを失って、創宇社は活動を事実上停止したのだが、この論に見るように、すでに創宇社は内部から停止の時期を迎えていたといえる。
 創宇社の同人だった人々は、海老原一郎、今泉善一、梅田穣、小川光三、河裾逸美、専徒栄記、竹村新太郎、道明栄二、渡刈雄、野口巌、平松善彦、広木亀吉、廣瀬初夫、古田末雄、山口栄一そして山口文象(岡村蚊象)。

・「新興建築家の実践とは」と題して講演
 創宇社第八回展の期間中の10月3日、山口の渡欧送別会を兼ねた創宇社主催第二回新建築思潮講演会を丸ノ内保険協会で開催した。山口は「新興建築家の実践とは」と題して講演し、これと前年の「新建築における唯物史観」「合理主義反省の要望」を合わせて、山口唯物的建築制作論三部作ともいうべきものとなる。
 山口はこの30数年後に語っている。
 「(創宇社の講演会で)合理主義というのは機械的な合理主義でなくて、社会主義的というよりも唯物史観的な合理主義でなければいけないという、つまりフランスの機械主義的社会主義とはちがった、本当の人間的な合理主義、階級的な合理主義でなければいけないという、そういったような講演をえらそうにやったわけなんです。しかし、そういうことをやって、それを読み返してみても、何をいっているんだか今では自分でもよくわからないんです。美術と階級それから文学と階級それから科学と階級、そういったいろんなことをみんないっているけれども、結局わからなかったんじゃないかと思うんです。わからなかったからといってそれが全然価値がないんじゃなくて、やっぱり模索していたということの中から、何か出て来たんじゃないかと思うんです」(「戦前・戦中・戦後」『建築』1962.6)

・シベリア鉄道で渡欧の旅にでる
 年末になって、朝鮮、満州、シベリア経由の鉄道で、ドイツに向けて遊学の旅に発った。パスポートには、名前は岡村瀧蔵(養子縁組はこの11月末に解いているがここは岡村姓のまま)、職業欄は関根要太郎建築事務所所員(身元を確実にするために籍を借りたのだろうか)、フランス文のProfession欄にはArchitecteとある。
 建築評論家の佐々木宏は、山口の洋行の意義をいう。
「山口の洋行がとくに注目されるのは、彼の場合、他の建築家のように恵まれた境遇の出身ではなく、実行に移すには多くの困難を克服しなければならなかったからである。当時、建築家として海外渡航することができた人びとは、そのほとんどが経済的に恵まれた背景をもち、官庁や大学に勤務していて視察出張や留学を命じられた者か、自費洋行の可能な富裕階級の出身者たちはかりであった。山口のように、学歴もなく、社会的地位も低く、資産の乏しい若い建築家が、勉学のために洋行するということは、当時の日本においては例外中の例外ともいうべきことだった」(「建築家山口文象人と作品」1982)

●作品:名古星市庁舎懸貰設計競技応募案、朝日新聞社横浜支局(横浜 片岡・石本建築事務所で担当)、ウクライナのハリコフ劇場コンペ(「国際建築」31・6月号)、「紡績工場の女工寄宿舎提案」(創宇社建築会第8回展、「国際建築」30・11月号)、

●著述:「新興建築家座談会記事」(「建築新潮」5月号)、「新興建築家の実践とは」(「国際建築」30・12月号)

●講演:「新興建築家の実践とは」(10月3日 第二回新建築思潮講演会)、コンペについて(10月14日 日本建築学会にて)


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