富山と東京:建築家山口文象と二人の小説作家をつなぐ糸は?

富山と東京:建築家山口文象と
二人の小説作家をつなぐ糸は?
伊達美徳

●山口文象と小泉八雲

 この三年ほどの間に、建築家山口文象と二人の文学作家を結ぶ二本の糸に、まことに興味のあることが起きている。その作家の一人は「怪談」の小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)、もう一人は「放浪記」の林芙美子である。
 八雲と山口文象との関係から書こう。1932年、二年間のヨーロッパ修行から帰国した山口は、流行作家のごとく精力的な建築設計活動を開始する。1933年に、松江市内に「小泉八雲記念館」を設計した。
 そのドイツのワイマールにあるゲーテ記念館を模したといわれる洋風二階建ての瀟洒な木造建物は、武家屋敷町の中では異彩を放っていたが、今は和風建築に建てかえられている。
 もうひとつ、富山市内にも山口の設計になる「小泉八雲図書館」が、1933年に計画されていたことが分かっていた。
 1933年当時の建築関係の雑誌に発表された模型写真を見ると、切り妻の大屋根をかけ、それを二本の棟持ち柱のような独立柱が支え、床下がピロティ状に高く浮き上がり、どこか出雲大社本殿をイメージさせるデザインで、松江の八雲記念館とはおおいに異なる。
 これは計画だけで建設されなかったものと思われていたのだったが、実は、旧制富山高校の図書館に付属する「小泉八雲図書館」として、1935年に完成していたことが確認されたのである。
 1999年に、金沢市在住の八雲研究者である染村絢子氏が、富山大学図書館保管の設計図と竣工した建物の写真を発見されたのであった。


 ところが、現物の写真を見ると、どうも模型写真とは似て非なるようでもあり、そのもののようでもあるデザインである。写真判定では、一応は山口設計と見てよいだろうが、途中で設計変更が起きたらしい。それも、山口の預かり知らないところで起きた感じもある。

八雲図書館模型写真(設計時)

 もしも設計変更したとしても、最後まで彼が見たならば、もっとよいプロポーションででき上がったろうと思われるからである。そのあたりは、染村氏の今後の研究に待たなければならない。
 更に、山口と八雲を結ぶ線はなにか、よく分かっていない。山口文象の富山でほかの仕事といえば、黒部第二発電所・ダムであるから、これに関連する人脈につながるのかもしれない。これも染村氏に期待するところである。
 その小泉八雲図書館は、富山大学の移転により1962年に取り壊されてしまったのだが、富山高校の同窓会が中心となって、もとの場所(今は公園になっている)に、それを復元しようという声が起きつつあるらしい。
 文化運動であり、まことに喜ばしいことで、ただ建物だけではなく、内部には富山大学図書館にある八雲の資料も、是非ともそこで閲覧できるようにしてほしいものである。

●山口文象と林芙美子

 さて、もう一人の林芙美子であるが、尾道在住の林芙美子研究者の清水英子氏から、今年になってご連絡をいただいた。それがナンとこの[まちもり通信]をご覧いただいたのがきっかけだと言うから、まことに現代的である。
 東京新宿区内にある山口文象設計の「林芙美子邸」は、1940年に竣工し、夫の画家・林緑敏と家庭をきづいた彼女の終の棲家である。いまは林芙美子記念館となっている。


 清水氏の研究活動が山口文象に至り、わがサイトにたどり着いたのだが、山口文象と林芙美子とは、どこから接点ができたのだろうか。清水氏に期待するところである。
 ヨーロッパ行っていた時期が二人は重なるから、パリかベルリンかで出会ったかもしれない。山口の当時の手帳を見たが、林らしい名はでてこない、別の資料を探そうと思っている。芙美子の方の記録資料には、どうなのだろうか。
 芙美子と建築家の白井晟一とは、パリで特別な関係にあったことは周知のことになったが、芙美子の滞欧日記類には男のイニシャルがたくさん登場するから、そこに山口文象がいた可能性もある。それが彼女の自邸の設計に結びついたのだろうか。なぜ彼女は白井に設計依頼しなかったのだろうか。清水氏の研究に期待している。
 なお、芙美子は純和風の住宅が欲しくて、奈良のあたりまで山口や設計スタッフをつれて、見学に行ったそうである。
 つまり山口に要求されたのは彼の手だれの裏技の世界であり、国際建築の大御所たる彼にとっては表に出したくなかった作品らしく、当時の雑誌にもその後にも発表していない。これが日大の歴史研究室に「発見」されたのは、80年代になってからであった。(2001・07・06) 


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