1936黒部川第2発電所・小屋ノ平ダム等

1936年 黒部川第2発電所・目黒橋
小屋ノ平ダム・沈砂池等

建物名称  日本電力黒部川第2発電所・目黒橋・小屋ノ平ダム・沈砂地水門他

建設場所 富山県宇奈月町

竣工時期 1936年

資  料・「建築世界」1939年9月号、「国際建築」1939年9月号 
・「新建築」9月号
・「UNA  DIGAN IN GIAPPONE」(「Casabela」1940年4月号)
・「庄川・小坂・黒部川第二発電所-石井頴一郎旧蔵写真集-」
(土木学会土木図書館)http://library.jsce.or.jp/Image_DB/koshashin/ishii/03/index.htm

  

・写真、図面等

●黒部第2発電所(現・猫又発電所)





●小屋平堰堤(RIA所蔵 山口文象建築事務所時代のもので、戦前撮影と思われる)


●小屋平堰堤沈砂池の水門(「新建築」1936年9月号掲載写真)

●小屋平ダム(岡本茂男撮影 「建築家山口文象人と作品」1982に掲載した写真)

●石井頴一郎著「ダムの話」表紙

●堰堤随感     山口蚊象
   (雑誌「国際建築」1938年9月号掲載)

 この堰堤のある小屋ノ平は、北陸線三日市で汽車を捨て、黒部鉄道に揺られて小一時間、うなつき温泉から更に「トロ」に托して二時間程度遡ったところにある。
 この黒部峡谷はまことに国立公園の名に恥じない素晴らしい景観である。ことに紅葉の季は美しい。深い塹壕の様に、伸ばせば掌に触れさうに狭ばまり合った山肌は一面に紅く御所染模様が織り出されて、真白いシャツもヴァーミリオンに映るかと思はれる。
 仰げば紺碧の空は帯の如く狭まく遥かの山頂に終り、錦の谷底を縫って奔流する清冽な黒部川は細いに似げない激げしい音を立てて駆ける。深い警告の木響は弱められずに聴く人の耳を襲ふらでらう。
 尾瀬平の一望只打寄せる紅の海原といった高原特有の開けた景観も捨て難いに違ひないが、渓谷の持つ紅葉の美しさはこの黒部に於いて尽きるものではあるまいかとさえ思ふ。
 この自然を害さずに、尨大なしかも近代的な構築物を如何に営むかの問題が先ず提出されたのであるが、わたしは遅疑するところなく、この構築物の持つ性格を無理なく、自然に、そして合理的に表現することに忠実であらうと決めたのである。
 国立公園であるため構造物は凡て「自然」と融和し、発電所には茅の屋根を、堰堤は土橋の如く、そしてコンクリートの肌に蔦を這わせは、などといふ意見が監督官庁から出たが、これはさして強力な主張とならずに終った様であった。
 山間の僻村につつましく点々とする藁葺き屋根の農家も美しいし、高原の牧場に石を載せた杉皮葺きの小屋も自然に溶け込んで美しいのである。「朝顔に釣瓶取られて」の風流もないことはない、しかし富士の霊峰を背景にして海洋に浮く「陸奥」の姿もまた得難い風景の一つであるに違ひない。
 コンクリートであるがために、又は鉄の構造物であるがために、「自然」にうけいれられないとは謂へない。問題はその構造物の機能的性格が偽りなく自然に表現されているかどうかに懸かっているのではあるまいか。
 私が土木構築の設計に参与しはじめたのはもう十数年の昔になるであらう。当時の復興局橋梁課において、東京、横浜の数多い橋梁の造形的意匠設計に参加してからのことである。
 この間、日本電力関係の堰堤を数ヶ所手懸けさせて戴いてゐるが、未だ本当に完全な土木表現を得たと自負する作品を持たない。これは自分の非才なること勿論であるが、建築家としての修練のみでは手の届かないところがあるのだとも考へてゐる。先ずそのスケールの厖大さに圧倒されてしまふのであらう。
 しかし私をいつも勇気づけてくれるのは、「建築家の仕事は機会の了ったところから始まる」といふコルビュジェの言葉である。
 これを発表するに当って私の名を連ねるのはおこがましい沙汰であるが、外国では既にほとんどの建築家がこの種の設計に参加し、しかも彼等の仕事が非常に重要視されてゐるのにわが国では未開拓の荒野として残されているのを想ひ、潜上を敢えてして建築家諸彦の関心を得たいと考へたからである。
 会社の石井技師長、斉藤土木部長、松谷建設所長、藤井設計課長、発電課の白崎建築係長はじめ、関係技術者諸氏の理解ある御援助なくしては到底私如き非才を以ってしてはまとまりも覚束なかったであらう。深く感謝の意を表し、今後を期したいと思ふ。
  ●カールスルーエ工科大学レーボック氏訪問時の山口文象手帳メモ1931年10月


●黒部川小屋平ダム及び第2発電所 伊達美徳-DATE,Yosinori(正会員 都市計画家)

 黒部川の電源開発は、大正期になって高峰譲吉博士がアルミ精練の電力を求めたことに始まる。1927年の柳河原発電所を第1号として今日まで、日本電力から関西電力へとひきつがれて、次々と困難な環境を克服してづけられ、かつての深山幽谷の秘境は、今や産業基盤と観光資源に転じている。
 黒部につくられた多くの土木構造物等の中で、1936年完工の黒部第2発電所と小屋平ダムの設計には、日本電力の土木技術者と共に建築家の山口文象(1902-78)が重要な役割を果しており、建築史上でも重要な位置づけにある現役の近代土木遺産である。
・国立公園にふさわしい構造物とは
 その完工当時の日本電力の土木部長斉藤孝二郎は、雑誌「国際建築」(1938.9)へ次のように寄稿している。
「近代的な大規模の水力発電が盛んに行われる様になって二十年になるが……堰堤、取水口、沈砂池、水槽、発電所等の設計は外形上大概判で押した様に型に嵌ったもの許り多く……付近山水の景趣は兎も角、構造物自軆は如何にも殺風景…」
 そこで国立公園にふさわしいものにするために、黒部第2発電所と小屋平堰堤の「外観の調整設計は總てを建築家山口蚊象君に依嘱したのである」
 その山口は同じ誌面で続いて言う。
「国立公園であるため構造物は凡て「自然」と融和し、發電所には茅の屋根を、堰堤は土橋の如く、そしてコンクリートの肌には蔦を這わせては、などという意見が監督官庁からでたが……コンクリートであるがために、又鐵の構造物であるがために、「自然」に受け入れられないとは謂えない。問題はその構造物の機能性格が偽りなく自然に表現されているかどうかに懸かっている…」
 その間の景観論争を物語るデザイン変遷を示す多くのスケッチが描かれている。

・近代建築及び土木史の貴重な遺産
 山口はこの設計の直前にドイツに留学(1930-32)し、建築家w.Gropius (bauhausの創始者)のもとで学び、「国際建築様式」という当時の最先端デザインを第2発電所の建築に持ち込んだ。
 機能と構造を抜群の優れたプロポーションで表現し、建築界の注目を浴びた卓抜な意匠は、見事に黒部川のランドマークとなっている。
 今ではこの様式で現存するものは極めて少なく、近代建築史上でも貴重な遺産となる作品である。
 山口文象は日本の著名な建築家としては珍しく、関東大震災の内務省復興局で東京の清洲橋や数寄屋橋などの「装飾設計」、その橋梁課長田中豊の紹介で日本電力の技師長石井頴一郎のもとで黒部、箱根、庄川のダムの「調整設計」、すなわち今日でいう「シビックデザイン」にも携わった。
 上流の小屋平堰堤、水門塔なども山口がデザインしている。発電所が「機能主義」ならば、こちらは対照的にマッシブな曲面構成の「表現主義」系の意匠である。
 興味深いことには 、山口の留学目的には小屋平ダム設計の調査もあり、1931年10月にカールスルーエに滞在して、Karlsruhe工科大学に水理学者Dr.Rehbockのもとで、流砂とダム形態について実験もして指導を受けている。
 建築家と土木家とが景観から構造までにわたって協力し、近代日本を代表する造型にまで高めた努力を、これからのシビックデザインにも生かしたいものである。

   ○参考資料「建築家山口文象 人と作品」(RIA建築綜合研究所・相模書房)
       注:この小論は1999年土木学会の会誌に掲載した。


●1936年黒部第二ダム関連の設計・工事が完了 伊達美徳
        (「新編山口文象人と作品」2003年より)

 この年、日本電力黒部川第二号発電所の小屋ノ平ダム、沈砂池水門等が竣工し、黒部第二ダム関連の仕事が完了した。
 日本電力の斉藤孝二郎土木部長による当時の解説。(「黒部川水力発電所」:雑誌「国際建築」1938年9月号)
「近代的な大規模の水力発電が盛んに行われる様になって二十年になるが……、堰堤、取水口、沈砂池、水槽、発電所等の設計は外形上大概判で押した様に型に嵌ったもの許り多く……付近山水の景趣は兎も角、構造物自軆は如何にも殺風景……。黒部が本邦唯一の峡谷としての国立公園に指定せられ、又我々としても此峡谷に土木工事を以上是に相応しい工作物を造りあげねばならぬと最初から覚悟して、……外観の調整設計は總てを建築家山口蚊象君に依嘱したのである」
 山口は同じ誌面で書いている。(「堰堤随感」:雑誌「国際建築」1938年9月号)
「国立公園であるため構造物は凡て「自然」と融和し、發電所には茅の屋根を、堰堤は土橋の如く、そしてコンクリートの肌には蔦を這わせては、などという意見が監督官庁からでたが……コンクリートであるがために、又鐵の構造物であるがために、「自然」に受け入れられないとは謂えない。問題はその構造物の機能性格が偽りなく自然に表現されているかどうかに懸かっている…」
 山口は後年回想して、長谷川尭に語っている。(「兄事のこと」:対談集「建築をめぐる回想と思索」新建築社1976)
「黒部川は急流で水が砂を非常に含んでおるので、そのままそっくり下の発電所のタービンのほうに流していきますと、タービンが参っちゃう、それで沈砂地というのがありまして、ある期間、途中で砂を沈めまして、そして砂のない水をタービンのほうへ送るという特殊なやり方をしております。それから上のほうの魚が全部いなくなっちゃうから困る。下から上がってくる魚を全部ダムの50メートル上のほうまで上げなきゃいけない。それでアユの上がっていく生態を勉強して、どのくらいのステップにしたらいいかというようなことを勉強させられまして実験をしたりして、あそこはいまアユがだんだん上がっているんですよ」
 編者も直接に山口から次のようなことを聞いたことがある。(「北鎌倉でのインタビュー」:1976年12月11日録音テープより)
「デザインができて内務省に出したら、四角いのはダメだと言うんだよ。田村ゴウさんと言う人ががんばっててね、発電所をかやぶき屋根にしろとか、ダムに欄干つけてギボシつけろとかね。弱っちゃってね、ちょうど前川の親父さんが内務省の技官で偉かったのでね、その親父に頼んで、それで黒部ができたんですよ。::福田さんという人がいて東大出たばかりでね、世話になったよ、私より一つ下かな。石井頴一郎先生には世話になった。土木には人材がいたね。
 発電所に渡る橋がありますよ。当時、土木はブレーシングをかけたがるから、わたしが全部それとって、エンドのカーブを余計にしたりしてね、スマートですよ。
 発電所の音が悪くてね、3台のタービンの音がね、あんなにでかいとは思わなかった。私の平面ではオフィスが直ぐ上の階にあってね、仕事にならない。クレームで弱ってね、そこで佐藤武夫さんに音の解決で一緒にいってもらった。おかげで何とかなった。どうやったのか忘れた。あの当時、専門家で武夫さん以外にいなかった」
 後にRIAになってから植田一豊は解説している。(「RIAリポート 解説 植田一豊」:「新建築」 1955年)
「山口は建築家としてかなり特色ある出発をしている。芸術運動における経歴ももちろん無視することは出来ないが、もっと直接的にその後の仕事の底流になったのは、土木の仕事への参加である。東京市復興局での橋梁デザイン(数寄屋橋)、ダム工事の付属施設、ダム自体のデザイン面の担当がそれである。黒部川ダムの発電所はその代表的なものである。実施案には表現上の制約があったにしても、その当時もっとも先鋭なデザインであったろう。
 ……ここに見られる意欲の素晴らしさは、今日でもうかがえる。しかし、ダムのgate、其の他の付属施設での周到なデザインは、今日少しも時代を感じさせないことに、むしろ注目したい。発電所のほうはやはり、一つの時代の流れを感じさせても、これらの諸施設においては、時間は経過することを忘れている。functionすなわち造形物という理論は、それがまったく正しい関係で行われた場合、決して過去の一つの時代の理論でないことを説明している」
 黒部第二発電所関係は「Casabela」(4月号「UNA  DIGAN IN GIAPPONE」)、国際建築、新建築などに広く紹介され、建築家山口文象の名が高まった。


●黒部第2発電所・ダム  伊達美徳
   (「建築家山口文象人と作品」RIA編1982年相模書房より引用)

 土木設計へのかかわりは関東大震災の復興のためにつくられた内務省復興局橋梁課の嘱託技師となった時から始まる。ここでは主として橋のデザインを決めるために土木技術者から出される案をパースにすること、照明器具や欄干などのデザインをすることであったようだ。このときに描いたと思われる橋梁のパースが数案あり、その中で隅田川際の日本橋川にかかる豊海橋は、ここに掲げる黒部第2発電所(猫又発電所)へ黒部川を渡る目黒橋のデザインソースとなっていると見てよいであろう。
 日本電力の嘱託技師となってからは、デザインコーディネーターとして、会社側のエンジニアたちが出してくる設計図面に手を加えるという形で、いくつかのダムのデザインにかかわっている。
 黒部川第2発電所とダムについては、コーディネータとしてよりももっと深くかかわっており、昭和5年の渡欧の目的にダム技術調査があり、カールスルーエ工科大学にその権威者を訪ねている。
 今は関西電力に変わったが、発電所もダムも当時のままに黒部川の山峡に生きてその機能を果たしている。山口文象の作品のうちで「国際建築様式」のデザインでそのまま残っている唯一のものである。
 (注:その後、更に二つのモダンデザイン建築が存在することが分かった。20090216)


●国際建築の推進  佐々木宏
   (「建築家山口文象人と作品」RIA編1982年相模書房より抜粋引用)
 山口の作品の中に,橋梁やダムといった土木的な仕事のデザインが含まれているのは,日本はかりでなく,世界的にみてもかなりユニークな存在だといえるだろう.震災復興のための内務省復興局に在籍したことによって橋梁のような土木的な仕事の設計に関係するようになったのであるが,そのほとんどは土木技術者との協力体制下にあったためであろうか,先輩の山田守の聖橋のような個性的なデザインを生み出していない。
 清洲橋のような世界的にみてもユニークな吊橋において,どこまで山口が造型的な面で参加できたのかは明確でない.しかし,土木関係者の知己を得たことによって,ダムの設計にも協力するようになると,はっきりと山口の造型とみなされるものが現われるようになった.
 前述したように,彼の渡欧の資金の一部はダムの設計料の前金であったようであるし,また,ドイツにおいてすら,ダムの設計のためカールスルーエ工科大学の土木科へ行って研究を続けていたようでもあった.彼が手がけていたのは,黒部川第二発電所のダムである.
 一般的には黒部川第二発電所とそのダムの完成は1938年(昭和13年)となっている.山口が渡欧したのは1930年であり,それ以前から設計の仕事に着手していたというからかなり長い年月にわたっている.建設現場は非常に条件の悪い場所であるから,工事期間が長いのは当然である.この黒部川第二発電所とそのダムについては,設計がすべて完了したのは,昭和11年である.
 山口は発電所の建物だけでなくその上流の小屋平という所にあるダムと,その附属施設まで設計しているのである.
 発電所の方はいわゆるインターナショナル・スタイルのデザインで,いくらか細部の改変はあるが,いま(1978年現在)なお健在である.しかし,ダムサイトのデザインは,かならずしもインターナショナル・スタイルではない.いうなれは表現主義デザインともいうべき手法がモチーフとなっている.
 この時代の建築家の宿命として,大きなデザインの潮流の変革期に遭遇していたために,作品の上で,首尾一貫性を通すことができなかったのはやむをえなかっただろう.山口もその一人である.
 彼の場合は,後述するように,さらに日本の建築家の多くに見られるように,日本の伝統的な和風デザインの作品もある.作品の中での比重は異なるが,山口ほ堀口捨己や山田守といった分離派建築会の先輩と同様に,表現主義とインターナショナル・スタイル,そして和風デザインといった面を併せ持った建築家の一人であった.
 幸いなことに,黒部川第二発電所とダムについては,山口のスケッチが伝えられている.そのスケッチによれば,ダムと発電所のデザインは質的な相異はあまりない.ダムのスケッチはどちらかというと,実現したものよりも角ばっていて,インターナショナル・スタイルのデザイン感覚にもとづいたのではないかとさえ思われる。
 発電所については第一次案から第三次案まであって,決定案がインターナショナル・スタイルに収れんしている.第一次案はかなり,マッシィヴな案である.デザインの傾向からいえば,それぞれに表現は異なるが,発電所の建築の方は,幾何学的な構成で追求されていて,ダムの方は,スタティックなデザインからダイナミックなフォルムへと変っている.これは非常に興味深い面である.前に指摘したように,日本歯科医専でも,ともすれば,表現主義的なデザインが露出しそうな面があったが,この発電所とダムでも,山口の内部では,造型表現の相剋があったように推察される。
 小屋平のダムサイトにある沈砂地とそれに附属した操作室のデザインは,いずれもコンクリート打放しで,しかも,随所に曲線や曲面のデザインが用いられている.戦後の打放しコンクリートのデザインを見なれた眼には発電所よりも,ずっと新鮮でダイナミックなデザインのように映る.
 この操作室の湾曲したデザインなどは,まさにザハリッヒカイトの設計であり,土木的感覚でデザインされたものにちがいない。おそらく,プランから始めなくてはならない制約の多い建築の設計に比べて,ダムサイトの施設などには,造型的な面でかなり自由度があり,山口はそれを踏まえて,思う存分に造型的な処理を試みたのでほなかろうか。
 つまり,建築のデザインならば,当時のさまざまな傾向の中でもある種の方向をめざさなくてはならないが,しかし,土木的な構築物においては,そのような制約はまったくなく,自由な造型を与えようとしたにちがいない.人目に触れることの少ない施設だけに,むしろ,山口は造型に対するロマンティシズムを思い切り盛りこんだのであろう.かかる意味で,黒部川第二発電所の小屋平のダムサイトは,山口のデザインとして非常に興味深い面をもっている.これに類似した面は,庄川から始まり箱根湯本に至る一連のダムのデザインの中にも発見することができるだろう.
 黒部川第二発電所は,日本のインターナショナル・スタイルの建築デザインの中でもっともユニークなもののひとつである。まず発電所であるということ-日本には,水力,火力その他の発電所は数多いが,およそ,その建物が,デザイン的に話題となり問題となったものはほとんどない.
 著名な建築家が手がけたものとしては,戦後に坂倉準三が設計した岐阜の丸山発電所(?)ぐらいのものではなかっただろうか。それほど水力発電所というのは建築家の課題としては特殊なものだった。山口としても当然最初のものだったし,欧米においても新しいデザインにょる事例はほとんどなかったといってよい.従来の発電所の没個性なデザインについては十分に知っていたにちがいない.したがって山口は発電所とはいえ,それに新しいデザインを付与することに一種の使命感を抱いたにちがいない.残されたいくつかのスケッチは,その彼の情熱を伝えている.
 黒部渓谷は有名な景勝地であり,そこに建てるについては,景観上の問題もあった.この問題は今日なおしばしば論議されているテーマであり,山口が早くからこの問題に直面していたということは,先駆者として重要な意義をもっている.山口が採用したのは,周囲の自然景観とまったく対比的な真白い姿をしたインターナショナル・スタイルのオーソドックスなデザインであった.
 内部空間の枚能的性格が外部の構成にまで表出しているという点では,日本歯科医専よりも明確な解決が与えられている.ロケーションの選定は,市街地内に建てられる建築以上にきびしいものだったほずであるが,その建ち上がった姿は,そのような制約がまるでなかったかのように堂々としている。スケールの大きい自然景観の中で,倭小にならずに存在感を発揮しているのは見事である.それはこの建築の明晰な造型によるものであろう.
 山口は「堰堤随感」という小文の中で,黒部渓谷の自然実についてのべ,それに続いて次のように書いている。
 この自然を害わずに,厖大なしかも最も近代的な構築物を如何に営むかの問題が先ず提出されたのであるが,私は遅疑するところなく,この構築物の持つ性格を無理なく,自然に,そして合理的に表現することに忠実であろうと決めたのである.国立公園であるため構造物は凡て「自然」と融和し,発電所には茅の屋根を,堰堤は土橋の如く,そしてコンクリートの肌に蔦を這わせては,などという意見が監督官庁から出たが,これはさして強力な主張とならずに終った様であった.山間の僻村につつましく点々とする藁屋根の農家も美しいし,高原の牧場に石を載せた杉皮葺の小屋も自然に溶け込んで美しいのである.「朝顔に釣瓶取られて」の風流もないことはない.しかし富士の霊峰を背景にして海洋に浮く「陸奥」の姿もまた得難い風景の一つであるに違いない.コンクリートであるがために,又は鉄の構造物であるがために,「自然」に受け入れられないとはいえない.問題はその構造物の機能的性格が偽りなく自然に表現されているかどうかに懸っているのではあるまいか.
 そして,さらに山口自身のそれまでの仕事を反省して次のように記している.
 ‥未だ本当に完全な土木的表現を得たと自負する作品を持たない.これは自分の非才なること勿論であるが,建築家の修練のみでは手の届かないところがあるのだとも考えている.先ずそのスケールの厖大さに圧倒されてしまうのであろう.しかし私をいつも勇気づけてくれるのは,「建築家の仕事は機械のあったところから始まる」というコルビュジェの言葉である.
 これらの引用文によって山口の意図とデザインに取り組む姿勢は明らかである.しかも山口が提起しているのは,彼個人の課題であるはかりでなく,今日にも及んでいる.たとえばその後,黒部川第四発電所(クロヨン)においてはダムは露出せざるをえなかったが,発電所は地底に建設されてしまった.いうならば,山口のデザインの時よりも後退してしまったわけである.このような観点からいえは,発電所を完成して広く世に問うことができたという点で山口は幸運だったともいえよう.
 この発電所のデザインはインターナショナル・スタイルの中でもユニークな面をもっている.それは柱と梁のラーメン構造を大胆に表現として用いている点である.しばしば近代建築のテーゼとして「構造の素直な表現」などといわれてきているが,実際には,構造体をそのまま表現とした例は,一連のインターナショナル・スタイルの中でも数多くはない.マックス・タウトの作品などは,その例として今日高く評価されているが,この発電所の外部の正面の大部分を占める柱と梁のデザインほそれに匹敵するものといえよう.
 しかもそれでいて,上部における庇の突出の手法は,どこか吉田鉄郎のデザインに類似しているようにも思われる.視覚的な効果は別として黒部峡谷のような豪雪地帯においては,軒廻りの設計というのは,かなり重要な問題である.
 この発電所においては,庇が出ている部分と出ていない部分が混在している.デザインの手法としては一貫性がなく,地域的条件を考慮した設計としても統一性が欠けている.しかし,それにもかかわらず,奇妙に調和を見せているし,また大きな損傷もなかったと伝えられている.このような細部も全体の造型効果の上ではなんら異和感が感じられないのである.
 興味深いのは,この発電所においても,建築本体の周辺の附属施設のデザインにおいて曲線や曲面を用いたデザインが適用されている点である.これらを表現主義的デザインといえるかどうかは断定できないが,水に関係する施設は水力学的や流体力学的な合理性の上から曲線や曲面が導入されるのは当然だったものと思われる。しかし,それにしてもただたんなる工作物としてではなく,かなり造型的な意図が織りこまれているように見受けられる.
 黒部川を渡って発電所へ近づく橋もユニークなものである.現在は赤く塗られているが,当時はどんな色彩だったのかは不明である.実施されなかった計画案の中に,ほぼ現在のものと同じ形態の橋梁が描かれているので,おそらくこの橋の意匠は山口によってデザインされたものであろう.
 この発電所には山口の造型の力量のすべてが集積されている.そしてそれは当時の日本の建築家の中でもかなり高度な水準に達したものであり,欧米の成果に比べても劣らないはかりでなく,このような厳しい条件の中で見事なデザインを実現しただけに,山口の方が,もっと自由な可能性を蔵していたのではないかとさえうかがわれる.


●造景をたずねて・黒部第2発電所 伊達美徳

 黒部峡谷鉄道猫又駅から眺める黒部川第2発電所。右は目黒橋(撮影:伊達美徳1993)

 真夏、涼しさ美しさちょっぴり冒険の観光客たち、黒部峡谷鉄道のトロッコ列車は、緑の懸崖を縫いながら登ること約50分、トンネルをでて猫又駅の直前、右に見えてきたのが、わたしの訪ねる赤い鉄橋と白い建築である。
 真っ赤な鉄骨の橋梁は力強い曲線、真っ白な箱型の建物は端正で美しいプロポーション、その背景に深い緑と急峻な岸壁、手前には流れ下る激流。これらの厳しい自然とダイナミックな建造物とは、たがいに対峙して緊張感をもちなが美しい景観を創りだしている。
 この建築は、富山の建築百選にも選ばれている「黒部川第二発電所」である。戦前、日本の建築界ばかりか土木界でも評判となった名建築だし、わたしの師匠の作品なのだ。
 実はそのデザインには、担当の土木技師と設計した建築家の意欲と苦労が秘められている。
 「周囲の美観に合致するように配慮された優美な発電所」と、黒部峡谷鉄道パンフレットの黒部川第二発電所の解説にある。
 しかし、ほんとうにそうだろうか。むしろ意識して自然と対立するデザインをしたように、わたしには見える。
 この発電所ができたのは1936年、そのころ日本建築界の新風は、一切の装飾をとりはらって機能に素直かつ構成の美しい建築だった。まさにこの発電所がそれで、国際建築様式とよばれてヨーロッパから世界に広がっていった。なぜ、ここに最先端建築が生れたのか。
 この設計者・山口文象は、1932年ドイツ修業から帰国すると日本歯科医科専門学校病院の設計で一躍スター建築家となり、続いてこの発電所と小屋平堰堤のデザインで確固たる地位を築いた。
 日本電力技師長の石井頴一郎は、かねてから黒部では国立公園に適した土木デザインをしたいと考え、内務省復興局橋梁課長の田中豊に相談した。田中は、橋梁課嘱託技師として関東大震災復興の橋をデザインしていた山口文象を紹介したのだった。
 1924年、石井は山口を復興局兼務の嘱託技師とし、庄川水系ダム、黒部川第二発電所、小屋平堰堤等のデザインをさせる。1930年暮から32年夏まで、ダムの調査にドイツに行かせたたが、山口は、その機会を建築デザイン修業に活用したのだった。
 当時、バウハウスを去ってベルリンにいた世界的大建築家W・グロピウスのもとで建築修業すると共に、カールスルーエ工科大学のダム権威者からも水理学の指導を受けた。
 「デザインができて内務省に出したら、四角の建物は駄目というのだよ。発電所を茅葺屋根にしろとか、ダムは土橋みたいにして擬宝珠の欄干つけろとか、もう弱っちゃってねえ」
 これは30年も昔、わたしが山口から聞いた話で録音もある。気鋭の山口と石頭の内務官僚との景観論争は、裏から手を回して収めたとかで、今に見る日本の近代建築高揚期の典型的なデザインとなった。
 山口文象は設計にあたって、デザインを確かめるため、また他の理解を求めるために、多様な完成予想図を何枚も描いている。(1933年ころ、水彩、竹村文庫所蔵)

 今見る人たちは、この発電所と橋をどう思うだろうか。「周囲と合致」していると言うには無理があるだろう。それでは美しくないかといえば、これが実に美しい風景だから、景観論は一筋縄ではいかない。
 山口の建築デザインの身上は、その抜群のプロポーションの良さである。だからこそ自然と対峙しても美しいのだ。
 発電所に渡る目黒橋も、二つ先の駅の小屋平ダムと水門塔なども山口デザインである。では、読者ご自身の眼力で美しい風景発見の旅へ、トロッコ列車でどうぞ。

【交 通】黒部峡谷鉄道宇奈月駅から約50分の猫又駅対岸
         文=伊達美徳(都市計画家 元RIA役員) 
注:この紹介文は、『ほっと ほくりく』2004年8月号社団法人北陸建設弘済会(現・一般社団法人北陸地域づくり協会)に掲載された。 


●余談  現代の発電所デザインは? 新柳河原発電所 1993

 中世ヨーロッパの古城をイメージして造られた発電所。
宇奈月ダム竣工に伴い、柳河原発電所の代替として、ダム湖沿いに1993年に完成。黒部峡谷鉄道の列車車窓より建物の外観を見ることができる。(伊達美徳)


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