1952-RIAが選んだ建築家共同体組織とその職能展開の軌跡

 注:この論文は、『建築雑誌』(2013年11月号日本建築学会発行)の、
特集『「建家が問われるき:自己規定の軌跡と現在』に寄稿した。


RIAが選んだ建築家共同体組織と
その職能展開の軌跡

 
History of unique cooperative system in Research Institute of Architecture(RIA ) with some reference to expanded horizons of architects' professions
伊達美徳 DATE,Yosinori      
アーバンプランナー/1937年生まれ。東京工業大学卒業。1961~89年RIA所属。1989年からフリーランスとなり、慶応義塾大学院非常勤講師、日本都市計画家協会常務理事事務局長、自治体委員など。仕事に「東京駅再開発計画(国土庁・建設省)」、「横須賀市の一連の都市計画」、「ものまちづくり(国土庁)」ほか。編著書に『初めて学ぶ都市計画』、『新編山口文象・人と作品』ほか。



 戦前は有名建築家だった山口文象が戦後に起こした「RIA」は、個人名を排した点で同世代の他の有名建築家たちとは一線を画し、戦後民主主義の嵐の海に再びの船出をしたのだが……。
 建築家というと普通は個人の職能をさすだろうが、編集者の依頼には集団組織RIAの職能をという。そこで、なんの資本的バックもない徒手空拳の建築家の集団RIAが、新たな職能像を求めて苦闘を重ねた1950~70年代迄の軌跡を書いたのが小論である。
 なお、RIAの正式名称は「RIA建築綜合研究所」、現在は改称して「株式会社アール・アイ・エー」である。

●建築家山口文象とRIAの出発
 
 太平洋戦争後の日本がまだ疲弊中の1950年、久が原教会という清新なデザインの建築が世に出た。設計は山口文象(1902~1978)、世に知らしめたのは『新建築』誌編集長の三輪正弘(1924~2013、東工大1949卒)である。

 山口は1932年に1年半の欧州遊学から帰国してすぐに日本歯科医学専門学校付属医院(1934)でデビューした。個人名のアトリエ事務所に徒弟約10人を従え、モダニズムの話題作を次々に発表、黒部第二発電所設計と関連土木施設デザイン(1938)で建築家として確固たる地位を築いた。太平洋戦争から約10年間のブランクの後、戦後再デビュー作が久が原教会であった。

 山口はRIA(Research Institute of Architecture)構想を三輪に話す。ドイツで師事した建築家ワルター・グロピウスがアメリカで結成した設計共同体TAC(The Architects Collaborative)にならい、建築家の共同設計集団をつくるというのである。
 その意図と作品に惹かれた三輪は、植田一豊(1923~2007、東工大1948卒)をひきいれ、1952年に3人で「RIAグループ」と称して、新制作派協会展覧会に金24万円の正札つき12坪の実物小住宅「ローコストハウス」を出品した。彼らのその後を暗示させる社会性のある作品は話題となった。

 1953年、「RIA建築綜合研究所」、通称リアのRIAが出発し、翌年に近藤正一(1930~、早大1954卒)が参加する。RIAは、建築家山口文象を頂点とするアトリエではなく、仕事も経営もフラットな建築家共同体として建築設計を行おうと企図した。
 資本的背景もパトロンもなく、戦後民主主義の嵐の中の理念の産物であった。RIA出発には山口文象の構想、三輪の実現仕掛け、植田の理論、近藤の実務推進の4人組図式がある。
 
●住宅のRIA(リア)時代

 RIAは1970年頃を境にその前を「住宅のリア」、後を「再開発のアールアイエー」という。結成か
ら1960年代後半までは、戸建て住宅設計の件数が圧倒的に多いのは、戦後の住宅不足の社会要請に対応しているが、なんの資本的バックがなくても受注できる仕事だったからでもある。それが1970年代から後は都市再開発系の仕事に入れ替わる(下図参照)。


 住宅のRIA時代は、東京の住宅設計を主として、各個人をベースの共同事業体ファームの色彩が濃い。その前半期は4人がそれぞれ演技をしつつ絶妙な呼吸でひとつの建築にまとめあげる力量をもち、4人のうちひとりが担当チーフとなり、後から入った所員を率いる体制で設計を進める。後半期は所員数が増えて大阪や名古屋にも支所をもつと、共同設計体テーゼ継続のために独特の方法と理論を発明していく。

 たとえば、内部では所員のコンペによる相互審査で担当者を決定し、グリッドプラン、ゾーンプラン、オーダー論などで共同設計の共通言語と手法を編み出す。外向きには依頼主に生活像を提案し論争啓発説得してこちらの意図する設計に持ち込む。毎年20戸もの戸建て住宅設計をもとに分析研究した居住計画論やデザイン論を、RIAレポートと称して建築ジャーナリズムに発信する。図面や写真とともに、共同体内部での設計理論や方法、ときには設計にかかる金勘定までさらけ出す。

 こうして住宅設計を通じて建築家という職能の内実を見せ、社会でのあり方も問いかけて、この時期のRIAは建築作家であり、啓蒙思想家であり社会批評家という職能でさえあった。
 もちろん住宅だけではなく、神奈川大学(1953~)、朝鮮大学校(1959)、新制作座文化センター(1964)などの建築の話題作を発表している。

 だが1960年代半ば頃になると、戸建て小住宅が建築作品なる地位を得る時代は終わる。一般建築設計が多くなるし、所員も増えるし、小住宅の設計料では食えないことも明白になる。
 そこで、これまでの住宅設計の蓄積を共有情報化したコンピュータ検索システムによる効率的住宅設計方式を開発して、これをもとに低廉で良質な庶民住宅設計を大量供給するカウンセリング方式を編み出した(1968)。
 この建築家が町医者のごとき職能で庶民に対応したのは、実にその心根やよしだった。だが、これは住宅市場に参入してきた大資本が席巻して、すぐにRIAの出る幕はなくなり、60年代の終わりとともに「住宅のリア時代」も終わった。

 次の「再開発のアールアイエー」への展望が開き、所員も仕事も多くなった1965年、新たな組織体制を模索して、所員全員参加の選挙制による運営システムを開始した。あくまで初志の共同体テーゼを掲げるこの内部制度を、その後も修正を重ねつつ株式会社制度とすり合わせていった。当時のRIAの流行語は「ゲマインシャフトからゲゼルシャフトへ」であった。
 
●再開発のRIA(アールアイエー)時代
 
 1969年、新大阪駅近くに3隻の空母のような巨大な新大阪センイシティが現れた。大阪RIAが総力をあげて企画、計画、事業推進、設計監理まで7年間かけた防災建築街区造成事業である。
 それは現今の話題の防災集団移転を思わせる。約360軒もの零細繊維製品卸問屋群が、大阪駅前からここに新天地を求めた大規模集団移転の再開発であった。

 これを率いたのが1963年にRIAに転職してきた藤田邦昭(1927~2001、福井工専1947卒)である。彼は大阪の日本住宅公団職員として、街の地権者と共同して店舗併存の市街地住宅ビルをつくる担当をしていたが、「市民と行政の懸け橋になるプロダクションをつくることが念願」(藤田1962)であった。
 植田が1959年から大阪RIAを率いて、市街地住宅ビルの設計をしたことで意気投合し、その念願をRIAに企図した。

 RIAの再開発の嚆矢は、1958年からの大阪立売堀防火建築帯(1962)であり、大阪近郊都市の防災建築街区造成事業をいくつも並行して進めていたが、藤田の参加でドライブがかかった。
 藤田は精力的に制度や手法の開発、各地を回って再開発掘り起し、人材育成、地域・行政・人材連携を進める。やがて東京RIAも太田市(1970)や武蔵野市(1972)などで防災建築街区を手掛け、住宅から都市再開発へ転換する。

 1960年頃から、都市には戦後復興期から高度成長期に向って建設の時代がやってきた。建築界に都市再開発が先端的な話題となり、建築家や研究者が壮大な見映えだけの都市再開発計画案を発表する。
 だが都市再開発現場のRIAでは、夜は再開発の主人公の商店主や住民とひざづめ談議のカウンセラー、昼は行政や諸専門家との調整役となり、共同建築プログラムを構築していく地道な仕事である。だからRIAが語るのは「窓口からの都市論」(植田1964)であった。

 そのころは建築設計を出自とする者ばかりだが、現場の藤田と理論の植田を2軸として多様な再開発人材が育っていく。都市計画、建築企画、地元対応、諸分野間調整、更には事業マネージメントなど、都市再開発の各専門的あるいは横断的職能を、オンザジョブで身につけていった。
 RIAは一般建築設計も多いし再開発も結局は建築設計だから、設計者=建築家という在来型職能像は健在だが、都市再開発の仕事はそれを相対化する広い視野をもたらし、新たな建築家職能像を獲得した。

 1969年には都市再開発法ができて、この分野の職能確立が見えてきた。初期には川下の建築設計料で食っていた再開発だが、川上のコンサル仕事にもフィーを出すコンセンサスと制度が生れた。
 RIA内部にも外部にも都市プランナーや再開発コーディネーターなる職能の確立が見えてきた1970年代から明確に「再開発のアールアイエー」時代である。

 創立者の山口文象は、1960年代半ばから病に悩みつつも、建築家として矜持と模索の中で珠玉の作品を残して1978年に他界した。
 1970年代初めに植田、三輪、藤田はそれぞれの道へとRIAを離れ、近藤がリーダーになる。

 RIAのもうひとつの重要な展開は、積極的な地方進出である。再開発事業は端緒から完成まで5年以上かかるから、行政担当者は異動してもRIA担当者は変わらず最後まで対応を続けて地元の信頼を得ると、やがて全国各地から声がかかり広がっていく。
 RIAは建築設計から都市計画まで広がる多様で柔軟な職能集団として、1980年代からは大都市3支社を拠点に東北から沖縄の地方都市に歩を進め、地域に根ざした独自のまちづくりを展開していく。
 
 (本論を書くにあたって、近藤正一さん、有賀正晃さんの、ご指導とご協力を得たことを、感謝申し上げます。) 


参考文献一覧(上記論文には併記していない)

RIA関連文献資料一覧  ●現物あるいはコピーあり ○画像あり ▼RIA部外関連者執筆       (2022/4/25伊達美徳)

 

・1952年10月号『新建築』「我々の問題としてのローコスト住宅」「直面せる住宅事情」山口文象、「われわれの選んだもの」植田一豊、「その実施案ー高橋さんの住まい」三輪正弘

 

・1953年6月号『新建築』「大久保邸」植田一豊、

・1953年7月号『新建築』「土田さんの家」植田一豊、

・1953年10月号『新建築』「大日本製糖堺工場」山口・植田・三輪

・1953年11月号『新建築』「大田区公会堂」、「住宅志言」山口文象

・1953年12月号『建築文化』「大田区政会館計画案」山口文象

・1953年『住宅相談』朝日新聞社刊 山口文象

 

●1954年3月号『新建築』「13坪の住宅2題」植田

○1954年月号『建築文化』「建築家は住宅で生活できるか」植田

○1954年3月号『国際建築』「神奈川大学綜合計画案』

●1954年4月号『新建築』「庶民住宅をどうするか』山口、今、浜口ミホ、池辺

・1954年7月号『新建築』「俳優座劇場のこと」三輪、「木造住宅におけるcasestudy」三輪・植田、「ローエの芸術」植田、「石下保育園」山口、

・1954年4月号『建築文化』「建築家は住宅で生活できるか」

●1954年5月号『新建築』「衣笠の家」山口・三輪

・1954年8月号『近代建築』「失地恢復」三輪

・1954年9月号『建築文化』「住宅のデザインと新材料トロッケンバウ」植田

・1954年11月号『新建築』「現代住居デザインをめぐって」植田・三輪・近藤、

「牧嗣人さんの家・榎木町の住宅」植田、「建築作品の低調が意味するものー第18回新制作展建築部評」三輪

・1954年11月号『近代建築』「下田邸」

・1954年12月号『新建築』「最近の舞台美術の傾向を示す-吉田謙吉美術会展」三輪、「座談会・若い世代が志向するものー建築創造の今日の問題点」植田、峰岸、沖、内田、永松、林

・1954年12月号『建築文化』「田村さんの家」三輪

 

・1955年1月号『新建築』「書評・池辺陽著『住まい』」山口

●1955年2月号『新建築』「小町さんの住まい」植田・近藤・山口、「あまりに現象的なとらえかた」植田・三輪・近藤

・1955年3月号『建築文化』「渡辺さんの住まい」岸正敏、植田

●1955年3月号『新建築』「国分寺の集団住宅」三輪

●1955年4月号『新建築』「中国人作曲家の碑」山口

・1955年4、5月号『建築文化』「座談会:若き建築家の発言」植田、大高、浜口

・1955年6月号『新建築』「料亭栗田」三輪

・1955年7月号『新建築』「日本歯科大学増築計画」植田

1955年9月号『新建築』「川崎に建つ鉄筋コンクリートアパート」近藤

○1955年9月号『建築文化』「RIAグループ1952‐54の木造住宅を中心にした歩み」「RIAースタイルの追及」近藤、「住宅問題との接触」三輪、「大和住宅・永瀬さんの住まい・小町さんの住まい・1952年3月4月」植田、「鼎談」山口・三輪・植田、

●1955年10月号『新建築』「昨日、今日そして明日へ」山口、「RIAリポートー神奈川大学第1期計画・横浜写真商会・化粧ビル・千葉医院・旅館新滝」

・1955年11月号『新建築』「RIAリポートー三番町の家・幡ヶ谷の家・ 鎌倉の家・鵠沼の家」

・1955年『世界の現代住宅6日本編』「小町邸」

 

・1956年4月号『建築文化』「ふじ医院」植田・岸、「千葉医院」植田、「安藤医院」近藤

・1956年5月号『L'architecture d'aujourrd' hui』「石下幼稚園・小町邸

○1956年7月号『建築文化』「RIAレポート グループ活動についての発言」「詩人と散文家たち」植田、「ものをつくる」三輪、「研究会を通じて」富永、「地方巡業」近藤、「三番目の横丁」池上、

・1956年10月号『建築文化』「RIAリポート」「住宅ノート55ー56年の住宅、桜井邸・山本邸・木村邸」植田

・1956年11月号『建築文化』「RIAリポート」「住宅ノート55ー56年 K氏邸・橋本邸・木島邸・二俣邸・石川邸」近藤

・1956年12月号『建築文化』「RIAリポート」「住宅ノート55-56年 雫石邸・山口邸・田中邸・大槻邸・中村邸」池上

1956年?月号『国際建築』「RIAの住宅」「関根商店・K邸・稲本邸 木で家をつくること」近藤、「ディスカション:木造を選ぶ条件」近藤・内田・峰岸・増沢、「三つのテーマ三つのプロトタイプ」植田、「プランと構造」三輪

・1956年?月号『新建築』「池辺論文をめぐって」植田・三輪・近藤

 

・1957年2月号『建築文化』「RIAリポート」「住宅ノート55‐56年 杉山邸・速水邸・浜本邸・植野邸」富永六郎

・1957年3月号『建築文化』「家具は誰のものだ」山口、「RIAリポート」「住宅ノート 教授の別荘・I先生の家・二見邸・Kさんの家」植田

・1957年5月号『建築文化』「RIAレポート」「住宅ノート55-56年 レンタブルハウスNo.1・日比野医院・レンタブルハウスNo.2・近鉄建売住宅」三輪

・1957年9月号『新建築』「「神奈川大学工学部研究室・Tプレス工場」植田、「交換批評 K印刷工場(沖種郎)を見て」近藤

 

・1958年2月号『新建築』「東京部品工場」

○1958年4月号『建築文化』「RIA白書」「岩井邸」三輪、「高田邸・大串邸・橋本邸・S氏邸」近藤

・1958年9月号『国際建築』「尾崎記念館競技設計」増田、

・1958年11月号『建築文化』「折版構造の屋根を持つ工場日本インタナショナル整流器工場・折板構造の屋根を持つ独身寮」近藤

・1958年12月号『建築文化』「神奈川大学8号館-図書館・研究室」植田

・1958年No.856『建築雑誌』「建築教育に関する70氏の意見」山口(三輪)

▽1958年6月号『建築文化』「建築家よ都市像を持とう」丹下・大谷・磯崎

1958年854号『建築雑誌』「商店街不燃共同化の諸問題」今泉善一

 

1959年11月号『建築文化』「特集大阪の街づくり―都市再開発への歩み」藤田・椚座正信・三輪雅久

 

・1960年2月号『建築文化』「神奈川大学本館」植田・石村・近藤、「世田谷区立舟橋中学校」植田

・1960年4月号『建築文化』「北村邸・野口邸・加村邸 平面好みの建築家たち」植田

・1960年4月号『新建築』「脊梁を持つ家 久保邸計画案」近藤

・1960年7月号『建築文化』「大河内教授の家について」三輪

・1960年8月号『新建築』「ルドルフ・牧・篠原鼎談をめぐって」植田

・1960年9月号『建築』「ディテールから表現へ 増沢洵詳細図解説」植田

・1960年11月号『建築』「横山公男論」三輪

○1960年12月号『建築』「壁式構造による住宅」植田、「近鉄建売住宅について」植田、「10日間のローマ」三輪、「大阪レディーメードセンターをめぐる話題」植田

・1960年『モダンリビング 住宅設計のすべて』RIA特集号

 

・1961年1月号『新都市』立売堀計画

・1961年1月号『新建築』「今日の小住宅レディーメードとオーダーメード」池上、「まち中に建つ住宅」池上、「ワイドアンカルの旅」三輪、

・1961年1月号『建築』「イタリアの窓」三輪、

・1961年2月号『建築』「ドイツのエネルギー」三輪

・1961年3月号『建築』「アメリカ東から西へ」三輪

・1961年5月号『建築』「パリをめぐって」三輪、「吉阪研究室設計方法」三輪、「ある教会」近藤、

1961年5月号『新建築』「大住宅という問題をめぐって 「大きな家」における篠原一男」植田

●1961年6月号『室内』「特集RIAの小住宅と家具」

・1961年6月号『建築』「ニューヨーク通り」三輪

・1961年7月号『建築』「河合邸について 正方形プランニング」近藤

・1961年8月号『建築』「ヨーロッパのインテリアデザイン」三輪

・1961年9月号『新建築』「リゾートハウス覚書」三輪

・1961年10月号『建築』「レイモンドと日本の近代建築」三輪

1961年6月号 『住宅』 「耐火建築促進法が歩んだ道」和田友一
・1961年9月『室内』「佐藤武夫とRIA」村松貞次郎
○1961年 建築学会論文 「立売堀再開発について」植田

 

・1962年2月号『建築』「マンジャロッティの作品について」三輪

・1962年2月号『近代建築』「我妻洋氏の家について」三輪

・1962年2月号『建築文化』「S氏邸について」近藤

・1962年5月号『国際建築』「朝鮮大学学舎について」三輪

●1962年6月号『建築』「RIA特集」「戦前・戦中・戦後」山口文象、「53年から61年で」植田一豊、「組織」三輪正弘、「住宅とRIA]近藤正一、「年表」

●1962年6月2週・3週号『週刊建設ニュース』「都市計画にヒューマンスケールを」山口・川添対談

●1962年7月号『建築』「大阪既製服縫製近代化協同組合枚方団地」植田

・1962年『週刊文春連載』「住宅ノート」植田

・1962年「新しい住宅ー生活と設計」植田・三輪・近藤(社会思想研究会出版部刊)

・1962年 現代教養文庫 住宅シリーズ 植田・三輪・近藤

1962年43巻1号 『建築と社会』「都市再開発―経過と人と組織と展望」藤田邦昭

・1963年3月号『建築』「高根カントリークラブ」近藤、「鹿沢国民休暇村宿舎」石村勇二、「鹿沢国民休暇村3つの問題点」水口禎

・1963年4月号『建築』「小野邸について」北島道生、「舟木邸について」水口、「江幡邸について」上平三和子、「山田邸について」三輪

・1963年5月号『建築』「美術家会館メモ」近藤

1963年7月号『建築文化』「住宅設計おぼえ書き・プラニングコンペの意味するもの」RIA建築綜合研究所

・1963年10月号『建築』「ニワ考」近藤

・1963年10月号『新建築』「Oさんの小別荘」三輪

 

・1964年1月号~ 『室内』 「家を建てよう」植田、「間取りの研究」近藤

●1964年10月刊『家を建てよう』(三和図書)植田

・1964年3月号『建築』「新制作座文化センター」近藤

●1964年3月号『建築文化』「新制作座文化センター設計メモより」近藤

・1964年3月号『新建築』「新制作座文化センターの設計」「自然・舞台・人間」近藤、「自然環境と構成的環境」北島道生

・1964年3月号『近代建築』「新制作座文化センター計画の概要」近藤正一、「禁欲主義のデザインと技術 新制作座文化センターの設計をめぐるデザインと技術の問題」 石村勇二

・1964年8月号『建築文化』「activeな壁、passiveな壁」近藤

○1964年12月号『国際建築』「窓口からの都市論 組織について」植田

・1964年  『モダンリビング』「コートハウス入門」三輪

 

1965年1月号『近代建築』「RIAの住宅Ⅰ」植田、近藤

1965年2月号『近代建築』「RIAの住宅Ⅱ」三輪、水口、石村、

●1965年3月号『近代建築』「RIAの住宅Ⅲ」川崎、石村、柴田正昭、福井稔、石関擁夫、三輪、植田、近藤

・1965年11月号『近代建築』「大阪既製服縫製近代化協同組合枚方団地 工場計画について」稲地一晃

 

●1966年1月発行『RIA 1953-‘66』

・1966年9月号『建築』「住宅Cについて」稲地

・1966年10月号『建築文化』「石原邸 平面からの脱出・石原邸メモ」近藤

・1966年11月号『SD』「光庭のある家」近藤

 ○1967年9月号『建築文化』「架構・外皮・装置-岩田邸・所邸・稲川邸・猪飼邸」近藤・川崎

 

・1969年3月号『都市住宅』「計量された<あき間>から空間の演出へ」近藤

・1969年8月号『建築』「団らんの家」平井英機 

・1969年8月号『都市住宅』「IS邸」RIA建築綜合研究所

1969年9月号『建築文化』大量供給に対応する住宅の設計システム コンピューターを用いて最適平面を選択する」石村・川崎・近藤・明石秀代

○1969年11月号『新建築』「新大阪センイシティーをめぐって」植田

・1969年秋『建築家』「ワルター・グロピウス」山口文象 *『現代日本建築家全集11』に再録 

●1969年9月発行『新大阪センイシティー 企画から竣工まで』

●1969年発行『新訂建築学体系38木造設計例』 

・1970年5月号『都市住宅』「本当にマイホームとは何か」近藤 

●1971年12月発行 『現代日本建築家全集11 坂倉順三 山口文象とRIA』 

▼1972年2月号『建築文化』「特集・世界の都市再開発」 

●1973年3月号『建築文化』 「RIAレポート都市再開発1958-92 街は甦るか―現場かの都市論」RIA

▼1973年10月号『都市住宅』「特集・再開発」「再開発都市論への覚書」藤田 

●1978年4月(「建築士」1978.4 日本建築士会連合会)『地域に根をおろした建築を』 山口文象

▼1978年8月号『建築文化』住宅特集 「日本における近代建築の成立」山口文象

▼1979年3月号『建築画報』(特集・まちはよみがえるかー都市再開発法施行から10年) 

1982年発行『建築家山口文象 人と作品』RIA建築綜合研究所 相模書房 

●1983年発行『RIA1953~1983』(アール・アイ・エー建築綜合研究所30周年記念) 

●1989年1月号『建築文化』「戦後、建築家の足跡1-山口文象」布野修司 


●2003年発行『RIA 業績リスト』『新編 山口文象人と作品』
 

●2009年6月発行『RIA概史1945~2001年(RIA社内教材2009年版)』編集責任有賀正晃(非公開)

2011年発行『都市の戦後 雑踏の中の都市計画と建築』初田香成 東京大学出版会

●2011年8月website『まちもり通信』「戦後復興街並みをつくった市井の人々・書評:初田香成「都市の戦後」


●2013年10月『疾風のごとく駆け抜けたRIAの住宅づくり』RIA住宅研究会編 彰国社

2013年11月号『建築雑誌』「RIAが選んだ建築家共同体組織とその職能展開の軌跡」伊達美徳

●2013年11月号『新建築 別冊』 「まちをつくるプロセス RIAの手法」

●2013年11月WEBSITE『まちもり通信』 「体験的書評:まちをつくるプロセス RIAの手法」伊達美徳

●2011年4月『RIAが建築で街をつくりはじめて』近藤正一、中島、初田、植田、伊達、村田、有賀ほか著 建築技術発売

 

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