1936青雲荘アパート・友愛病院診療所

1936年 青雲荘アパート・友愛病院診療所

・建物名称  青雲荘アパート・診療所

・建設場所 東京

・竣工時期 1936年

・資料

「アパート第一作―診療所をもつアパート」:『国際建築』1936年7月号)
・『財団法人日本労働会館六十年史』1991年 財団法人日本労働会館発行

・写真、図面等

1936年竣工時の青雲荘・友愛病院写真(RIA所蔵)












・惟一館と友愛会
    コンドル設計の惟一館を改修した日本労働会館の北隣に建つ青雲荘・友愛病院
(RIA所蔵の竣工時の写真と友愛労働歴史館所蔵の写真を合成)

・資料:「アパート第一作 診療所を持つアパート」 山口蚊象
      (雑誌「国際建築」1936年7月号掲載記事)

 この建物は、建築主日本労働総同盟の経営方針に従ひ、一階の部分を診療所並びに病室に充ててゐることが、他のアパートと違ふ点である。それが為め、出入口、廊下等で単一の場合よりは少し面積が不経済になったが、それでも有効面積は全体の73.8パーセントまで押詰めることができた。これは三階部分の非常階段の位置と取扱ひ方が幾分でも援けになってゐるのかもしれない。
 はじめ洋間を全室の半分ほどにしたが、いろいろの事情から五部屋だけとし大部分を日本間にしたため、間仕切りは全て真壁漆喰塗りで従って室の構えも普通の日本間である。一本の廊下を挟んで両側に貸室が連なってゐるため喚起が充分でないのを予想して、各入口扉一方に上框から下框までの細長い開閉自由なガラリを装置し、またキチンの廊下側壁にも喚起口を開けて、大きなドラフトの代用をする長廊下へ吸い込ませる様にしたが、結果は非常に良好であった。
 各室外部の開口は寒さに備へて二重にし、内側は紙障子、外部はガラス障子を嵌め込んだ。この硝子障子は巾一尺二寸、高五尺で外開き、金物はホイトコを使った。謂わば回転ランマを竪に並べたようなものだと想ってもらえば間違いない。それを建物の端から端まで細長い開口に所謂仕切竪枠のウルサイ影がさえぎらずに済むから、建物自体の面をプレーンなものにするエフェクトが得られると思ふ。
 電車通りのファサードに部屋からの窓がないのは、この面があいにく真っ向から西陽を受けるのと、街路の騒音を防がなければならないところからの理由であり、三つの硝子のない開口のところは丁度非常階段である。そうしてこの上のⅤ字型の屋根は、この部分が吹抜きで雨がかかるため可及的低くしたいのと、屋上からの降り口はまたそれだけの高さを必要とするところから生じた“形”である。
 この工事の設計が始められて二三回プランについての意見の交換を行ったのみで、工事の完成までいろいろとご不満の点があったろうにも不拘ず半句も之れに触れず、信頼してお任せ下さった理事長松岡駒吉氏に対して心から感謝しなければならない。

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・戦争後の青雲荘再利用と総同盟会館・全繊会館


戦災で焼失した日本労働会館跡地に1949年に竣工した
山口文象設計の総同盟会館と全繊会館(スケッチ)


1960年頃?の焼け残り改修青雲荘(左)、総同盟会館(中)、全繊会館(右)




焼け残り青雲荘を改修して再利用している芝園食堂(1964年)
隣の工事中の建物は総同盟会館・全繊会館の取り壊し跡地に建つ友愛会館

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 ・資料:「財団法人日本労働会館六十年史
                      (1991年 渡辺悦次著 日本労働会館発行)抜粋
   (1936年青雲荘ー1949年総同盟会館・全繊会館への建設運営の動きがよく分かる資料)

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・解説、評論等

  ◆国際建築の推進    佐々木宏
      (『建築家山口文象 人と作品」RIA編 1982 相模書房より 抜粋引用)

  これ(引用注:日本歯科医専)に続く山口の一連の作品の中で,インターナショナル・スタイルの系譜の中につらなるものは,番町集合住宅,青雲荘アパート,山田邸,黒部川第二発電所などであろう.これらの中でとくに傑出したデザインを示しているのは山田邸と黒部川第二発電所であり,完成後に発表された当時から高い評価を与えられてきたものである.(中略)
  青雲荘アパート(芝園アパート)は山口文象の一連の作品の中で特別な意義をもつものである.それは建築主が財団法人労働会館となっており,いうなれば全日本労働総同盟の依頼によるものだったからである。
  山口が早くから社会主義運動に関係してきたことは広く知られている。しかし,それにもかかわらず,低所得老層や労働者のための施設を建設する機会にはあまり恵まれていない.このアパートはその中で,当時発表されて広く知られた事例なのである.
  一般に建築家は権力と富に奉仕する職業であったことから考えると,社会主義革命でも起らないかぎり左翼思想の建築家は理念の実現はおぼつかないのである.
  労働組合の建築をいくつか設計して,しかも新しいデザインによって注目されたハンネス・マイヤーやマックス・タウトは,これまで例外のように見られてきている.山口が日本においてこのような機会を得たことは,歴史的なことといえよう.
  この建築は1階が友愛病院にあてられ,2階と3階は労働者向けのアパートであった.妻側は開口部の少ない壁面構成で,他は連続窓をもったごく明快なインターナショナル・スタイルである.建築の性格上からであろうか,まったくけれん味のないデザインでまとめられているのが,かえって印象に残るほどである.
  このようにみてくると,山口文象は1930年代の日本におけるインターナショナル・スタイルの建築をいかに精力的に推進してきたかが判明する.しかも,他の建築家の作品と比べて遜色がないばかりでなく,国際的にみても,高い水準に達していた.とくに日本歯科医専と山田邸と黒部川第二発電所の3件は,当時すでにイタリアの『カサベラ』誌などにおいても掲載紹介されて,高い評価が与えられていたことは重要なことである.この点は,あらためて再認識し,再評価しなくてはならない問題であろう.
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 「惟一館から三田会館へ 120年間に次々に登場した7つの建築
              伊達美徳

1852年 J・コンドルがイギリスのロンドンで生まれた
1887年 J・コンドルが横浜に来着、政府工部省工作局に着任、工部大学校造家学科教師兼工省営繕課顧問となり、日本に洋風建築を普及し建築家を育てる
1887年 福澤諭吉らの招請でアメリカのキリスト教一派ユニテリアン教会が日本に初めて到来
1888年 松岡駒吉が鳥取県で生まれた

1894年 東京芝区三田四国町にJ・コンドル設計のユニテリアン教会「惟一館」が完成、3月25日献堂式、久米邦武ら演説、福沢諭吉ら祝詞
1898年 惟一館で社会主義研究会(安部磯雄・川上肇、片山潜・幸徳秋水ら)発足
1901年 惟一館で安部磯雄らが社会民主党結成、2日後政府の結社禁止命令
1902年 山口文象が東京の浅草で生まれた
1911年 東京ユニテリアン教会が統一基督教会と改称、鈴木文治が幹事に就任
1912年 惟一館で鈴木文治を会長として労働者の共済修養団体「友愛会」を設立
1917年 松岡駒吉が東京友愛会本部に着任
1919年 友愛会を大日本労働総同盟友愛会(総同盟)に改称(更に「総評」、「同盟」、現在の「連合」に至る)
1920年 J・コンドル東京で逝去。総同盟が惟一館講堂で日本労働学校を開校
1923年 山口文象が創宇社建築会を結成して建築運動を始め、次第に左翼化する。ユニテリアン教会が関東大震災や会員減少で日本から撤退
1930年 安部磯雄、賀川豊彦、新渡戸稲造、吉野作造らの支援で、総同盟が惟一館の土地建物を買収。山口文象たちが新興建築家連盟を結成するも赤宣伝によって瓦解。山口文象がヨーロッパ遊学(~1932年)、ベルリンのW・グロピウスに師事して最先端の建築デザインに携り、日本人左翼グループと交流
1931年 総同盟が財団法人日本労働会館(松岡駒吉理事長)を設立、財団資産とした惟一館を改装して「日本労働会館」と名付けて労働運動の拠点にする
1934年 松岡駒吉が日本労働総同盟会長となる1936年 惟一館の隣に「青雲荘アパート・友愛病院」(設計:山口文象)を建設
1938年 牛込の神楽坂食堂を東京市から引き継ぎ営業開始
1939年 川崎に第2青雲荘・友愛病院を開設
1940年 政府の産業報国会強制加入措置に反対して総同盟が自主解散
1945年 米軍機空襲で日本労働会館は炎上焼失、青雲荘は一部燃え残り
1946年 松岡駒吉が再建した総同盟会長となる。青雲荘の焼け残りコンクリートビルを修復して神楽坂食堂の権利を継承した「芝園食堂」を開設1949年 労働会館跡に「総同盟会館」と「全繊維同盟会館」(設計:山口文象)を建設
1958年 松岡駒吉が東京で逝去
1964年 更地にして「友愛会館」(設計:大阪建築事務所)を建設
1977年 友愛会館の駐車場用地に「ホテル三田会館」(設計:大建設計)を建設1978年 山口文象が東京で逝去
2012年 更地にして「友愛会館・三田会館」(設計:安井設計事務所)を建設




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