1954-神奈川大学横浜キャンパス

 1954-1988神奈川大学横浜キャンパス

●建物名称  神奈川大学横浜キャンパスの一連の建築
●建設場所 神奈川県横浜市神奈川区六角橋3-27-1
●竣工時期 1954ー1988年
 1954年 綜合計画
 1955年 3号館
 1956年 5号館及び研究室
 1957年 3号館西側に中講堂増築
 1958年 図書館(現6号館)
 1959年 本館
 1960年 学生第2寮、女子寮
 1962年 4号館及び研究室
 1964年 7号館
 1965年 8号館、10号館
 1966年 9号館
 1967年 11号館及び研究室、12号館及び研究室、体育館
 1969年 記念講堂
 1980年 新図書館
 1982年 17号館
 1984年 18号館
 1987年 19号館
 1988年 20号館
 1999年 旧本館及び記念講堂取り壊し、3号館及び4号館減築

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●公刊資料 

・『国際建築』1954.03、
・『新建築』1955.10、
・『建築文化』1958.12、
・『建築文化』1960.12、
・神奈川大学建築学科デザインコース作品集「RAKU」2011年度
 ・神奈川大学総合計画案http://www.arch.kanagawa-u.ac.jp/archWorks/RAKU/2011/02-17.pdf
 ・近藤正一インタビューhttp://www.arch.kanagawa-u.ac.jp/archWorks/RAKU/2011/18-21.pdf
 ・3号館解体現場調査レポートhttp://www.arch.kanagawa-u.ac.jp/archWorks/RAKU/2011/22-24.pdf
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●写真・図面

左は本館(1959-1999)、その右が3号館(1955)、
奥に図書館(現:6号館1958)



植田一豊が担当だった5号館(工学部研究棟1956)


左:本館近藤正一担当1959)と右:3号館(山口文象担当1955)


現在のキャンパス

現在の5号館

右は現在の5号館、奥は旧図書館(現・6号館、富永六郎担当1958)

左は新図書館(石村雄二担当1980)、右は12号館(1976)

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●記事

 神奈川大学建築学科創設50年記念講演
初期キャンパス設計者RIA・近藤正一さんの話を聞く
           2014年10月18日 伊達美徳

 横浜にある神奈川大学の建築学科創設50周年とて、記念の講演会を聴きに行ってきた(2014年10月18日)。講演者は、近藤正一さんと槇文彦さんであった。
 槙さんのお話は、ご自分が設計してきた数多くの大学キャンパスの建築について、名古屋大学豐田講堂から始まり、この講演会の会場であるセレストホールまでの解説であった。
 さすがに日本の東西はもちろん世界東西にわたっての仕事である。偶然にも、わたしはこの二つだけを見ているが、そのほかは見ていない。
 近藤正一さんの話は、かつて山口文象が率いるRIAが、神奈川大学のキャンパス計画コンペに当選して以来、営々と校舎の設計に携わってきた歴史物語である。
 そのお話をかいつまんで書いておく。なお、講演はは中井邦夫さんとの対談形式であった。

 1953年、神奈川大学キャンパスの綜合計画が指名コンペになった。指名されたのは、山口文象のRIA,久米権九郎の久米事務所、吉原慎一郎の創和設計であり、審査は神奈川県建築部営繕課の人であった。
 1953年は、山口文象、植田一豊、三輪正弘の3名でRIAの発足の年であるから、この3人でコンペに勝ったのだった。
 3人の建築家は、戦後民主主義の嵐の中で、建築家共同設計集団として歩もうと、Research Institut of Architecture(RIA)なる不遜な名称をつけたのであった。戦前に建築界では名を成していた山口の名を冠しないところに覚悟ほどが見える。
 もちろんこれは山口文象の師であったW・グロピウスがアメリカに亡命して組織したThe Architects Collaborative(TAC)に倣ったのであった。
 こうして山口文象は戦後の出発をしたが、3人の誰も財界のバックはなく、あるのは意気込みだけだった。庶民の小住宅設計で、ほそぼそと動き出す。
 そのRIAが神奈川大学の仕事を得たことは、歩み始めるにおおきな出来事だった。神奈川大学がRIAを、ゆりかごから育てたのであった。

 キャンパス全体の配置計画である「神奈川大学綜合計画」は、何段階かの変容をしていく。中庭や広場を考えながら、幾何学的な形態で構成していく。現代のキャンパスデザインにみるような曲線を使うことはなかった。
 山口文象のデザインの真髄は、コンポジションとプロポーションの厳格さ美しさにある。考えていくうちにしだいしだいにそぎ落とされて行く。
 「プレーンソーダのようなさわやかさ、後味の残らないデザイン」と、山口文象が言っていたことを近藤は思い出す。 

 1954年からほぼ1年おきに校舎が立ちあがるという猛スピードであり、1969年に一段落する。
 はじめの10年くらいは綜合計画に寄りながら進められたが、後半はかなり乱れて、前半と後半ではかなり違うと思う。それは大学の急速な拡大に対応するために、とにかく建てなければならなくなり、粗製乱造気味になった。

 1955年にできた3号館(2012年取り壊し)は、山口文象の担当によるものである。集団設計を標榜したRIAでは、山口文象も担当者に一人になるのだった。コンクリート造なのに細いフレームで木造の木割のような表現である。この構造設計は岡隆一で、バランスドラーメンと言われる方式だった。
 実はRIAで山口文象が担当した建築は多くはないが、その中でも大規模なものがこの3号館であった。病気がちだったのであまり担当できなかったが、後に寺院や博物館の小品でその力量を見せている。
 1955年にできた5号館の担当は植田一豊だったが、そのもとで詳細を書いたのが近藤で、最も印象的な仕事だった。
 コンクリートなのに柱間が1間で並んでいて、禁欲的なデザインだった。階段に当時としては珍しいプレキャストコンクリートを使ったり、窓枠のスチールサッシュに凝った。普通の引き違いでガラス面に段差が出るのを嫌って、折れて開く特異なディテールを考え出した。このころは既製品のサッシュはなくて、鉄板を曲げて手づくりだった。

 1956年にできた図書館は、いまは6号館となっている。担当は富永六郎。
 1959年にできた本館(1999年に取り壊し)の担当は近藤であり、米田吉盛学長が建築趣味でいろいろな注文を出してきて困った。ご自分で図面を書くし、電話でこまごまと指示されつつ図面を描かされたこともある。大学の担当者は、事務長の小坂さんと施設課長の酒井さんで、学長と合わせて3人が建築担当だった。

 8号館、9号館と進んでくると、大学生も量産時代、施設も量産になった感じだし、メンテナンス重視へと移ってきて、なかなかデザインが難しくなった。
 1967年にできた体育館の構造設計は山家啓助で、近藤と共にRIAの役員だった。実はこの山家さんは、神奈川大学建築学科で都市計画の教鞭をとっている山家京子教授の父君である。偶然にして意外なつながりがあるものだ。

 RIAにおける山口文象は、集団共同設計という新たな方法を目指して戦後再出発をした。そして植田、三輪、近藤たちの若者にかなり自由にさせて山口文象+RIAの名で発表していたが、実は個人的にはかなり我慢をしていたようであり、建築家個人としてとしてやりたいことがあったようだ。内では言わなかったが外でそのようなことを言っている。

 神奈川大学ではRIA初期の集団設計の試みの事例のひとつである。RIA内部もそうだが外部の構造設計たちとも共同して設計を進めて行った。その集団共同設計の試みは、今もRIAでは実験が続いていると言ってよい。
 米田吉盛学長の意気込みが、戦後日本の教育も建築も復興へと進む社会的上昇気分の中で育ってこのキャンパスができて行った。(20141019)

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