RIA1953~1966

RIA 1953-’66

(伊達注:この文章は、RIAが1967年に発行した営業用のパフレットの解説であり、筆者は植田一豊である)

沿革

RIA以前―建築家・山口文象

 当時ヨーロッパ建築界の指導者であつたワルター・グロピウスのもとで学んだ山口文象は、ベルリン大学修業ののちヨーロッパ各地を廻って、1933年に帰国しました。
 ナチズムの台頭によって社会主義をまもり国際建築様式を標樗していたグロピウスが、彼の創設したバウハウスとともに弾圧を受けはじめたころです。
 日本国内にはまだ近代建築運動の上昇期が続いていましさが、大陸侵攻がようやく軍事化のきぎしを見せはじめ、思想問題がかなりやかましくなっていました(京都帝大滝川事件1933、「天皇機関説」1935。
 山口はこの年独立して山口文象建築事務所を開いたのです。ル・コルビュジエのもとで学んだ前川国男も彼に相前後して建築活動をはじめています。
 当時コムニストだった山口には、周囲の風当り)が強かったのですが、日本歯科医専(現在の日本歯科医大)の校長中原市五郎に信頼され、新校舎と付属病院の設計を引受け、これを完成しました。この作品は帰国後の山口が全力を傾けたものでしたが、画期的なデビュー作となり、以後の作家活動を決定づけたのでした。
 やがて戦時体制がおとずれ、すべての近代建築活動が衰弱し建築が政治に圧倒され、思想と技術とが乖離背反して行くのを眼のあたりに見て、建築家山口文象は苦悩しはじめるのです。
 戦後の建築界は米軍の施設や軽商業施設にはじまったのですが、そうした仕事を拒んでいた山口は、また同時に戦後開放された左翼建築活動(NAU等)にも加わることをしなかったのです。外部からの圧力ではなしに、徐々に自らのなかで思想的転向が形或されていたのです。
 戦後数年の沈黙のあいだに、設計協働のチームRIAの構想がじっと練られていました。この時期の建築活動としては、久ケ原教会・関東学院グレセット記念講堂ほか2、3の小住宅に佳作をのこしたほか、新制作派協会に建築部をつくるとか、同建築部で神戸博覧会の施設を担当する推進役を果すなどをあげるにとどまります。
 <RIA>という共同設計グループヘのイメージは、彼の師グロピウスが亡命後のボストンでつくったTAC(建築家協働)の刺戟もあったでしょうが、なんといってもそれは体験からにじみ出てきた山口自身の決意にほかならなかったのです。
 建築評論家川添登は次のように書いています。
「建築綜合研究所<RIA>という名称は、これまでの建築事務所の多くが、所長だけがお金をもうけ、その名前だけが有名になって偉くなる、ということに対して、建築とは多数のひとびとの協力によってつくられるものであるという思想のもとに、個人名を事務所の名称に冠するのを避けてつくられたものである」と。
 ちなみにRIAは、Research(調査研究する)Institute(研究機関)Architecture(建築)のそれぞれの頭文字をとったものです。

RIAの出発―1953

 個人経営を排して共同設計チームをつくろうという山口文象に共鳴した三輪正弘と植田一豊の参加を得て、RIAがスタートしたのは)1953年、米軍による接収を解除された旧山口事務所の一室でありました。
 翌年、近藤正一が加わって初期の核づくりが固められたのです。
 僅かな仕事しか得られなかったので毎日エネルギーをもてあまし、それ相応に芸術家づていた彼等は、造形理論についてまたRIAの将来像について議論をたたかわしておりました。
 横須賀線の鶴見事故で亡くなられた三枝博音博士(日本における技術史をはじ′めて思想的に体系づけた)が、そのころ<東西文化交流研究所>をはじめられ、部屋がないためにRIAに同居し、研究活動をされていました。三枝さんの下には数人の若い研究者があってわたしたちと日常をともにしていましたので、お互いに教えられることが多かったものです。
 毎週共同研究会をもち、報告者を順にきめて芸術、文学、技術、歴史等をかなりひろく相関させながら3年あまりこのミーティングを続けたのです。この時期は苦しい経営状態とうらはらに、いちばん贅沢な時代だったといえるかもしれません。
 このようにして初期のRIAで培養された議論癖、批評癖はわれわれの体質の一部となって現在までひきつがれています。
 共同設計のシステムをつくることはたいへんむずかしいことで、現在それぞれの設計企業体が心をくだいているのもこの点ですが、RIAではできるだけ多くのメンバーがお互いに納得がいくような話し合いをして進めるというやり方とってきました。
 このことは反面混乱や非能率という欠点をもっていますが、何といつても個人の責任と自由、組織とのかかわり合いによって自己の分担の内容が明確にされるというすぐれた意味があったのです。
 それから数年間、RIAには数人のスタッフが加わり、大阪の支所が次第にRIAの中軸のひとつとして固まって行くことになります。
 設計部門の富永六郎・石村勇二・北島道生、さらに水口禎・福井稔・稲地一晃、事務部門の坂根良朗等がこの時期の参加者であり、現在の中堅乃至は幹部です。

共同設計と所内コンペティション

 RIA初期の数年間はとくに住宅デザインに精力が集中され、住居のプラニングに対する方法論が追求されました。
 たとえばひとりの施主から住宅設計の依頼があったとします。窓口担当者が計画条件を整理した上で他のメンバーに配布します。ディスカッションの日時をあらかじめ約束しておき、各自は平面のスケッチをもちよるのです。
 この小さな競技は、参加者がお互いの案を批判し意見を出し合うという方法で進められす。ここで選ばれた案がその提案者と事務担当者の手で具体的にまとめられ、こんどは施主との間のディスカッションが繰り返えされる・・・といったやり方です。われわれはこれをプラニングコンペと呼んでいました。
 このコンペ方式はいつも最上の答を出してくれるとは限りませんが、その代りによい案が出ないときは設計に移すことができません。駄作は手ひどくやっつけられて姿を消してしまいます。
 しかしわたしたちがこのようなコンペディスカッションを重視した理由は、まえにものべたように仕事の能率化ということでなく、むしろチームのメンバーがお互いの能力を確認し競合することによって、共同競計チームの綜合力を開発し高めることにあったといえましょう。
 ですから外部に対して、はなばなしい個人の才能がPRされませんでしたが、RIA内部ではお互いの激しい作家根性なり個性がむき出しにされていたのです。
 所長山口文象はつねに「建築家でござい、といばらないこと」「マズくともよいから絶体にマネをしないこと」と口ぐせのように話していました。
 技術だけでないもの、技術の内側にあるもの、技術を支えているもの、どういっても同じことですが、われわれがいつも遠回りしながら探してきたのは、ただ上手な設計でも美しい造形でもなく、人間の存在する空間、現代の日本人の空間だったといえましょう。
 したがって住宅デザインから出発したRIAが、人間の生活の場としての<建築>を求めたのは当然のなりゆきだったと思われます。

組織と運営―RIAの社会的使命

 RIAは自然発生的といってもいいほどに仕事の場におけるメンバー同志のふれ合いが、人間としての個性のつながりとなって生長してきたのです。ところが5年経ってスタッフが10人となり、7年経って15人にふえ、東京と大阪の2つの拠点がそれぞれに営業的な軌道に乗りはじめるにつれて、それまでの素朴で自己流な運営がむずかしくなってきたのです。
 こういう現象は、すべての若い企業が直面する当然の悩みといってしまえばそれまでですが、われわれははじめて突き当った璧にとまどって、活路を探すことに数年を費してしまいました。
 構造設計家の山家啓助がRIAに加わったのはこの頃です。彼の加入はもちろん直接にはチームに技術的な充実をもたらすためのものでしたが、すでに社会的な地位をもっていたタレントをスカウトしたということで、のちのRIAの組織化を意織させるキッカケとなっているのです。
 つまりそれは、RIAという純血種ゲマインシャフ(血縁社会)がゲゼルシャフト(契約社会)としての企業能力を意織したことであり、RIAが社会的を責任をもった設計事務所としての自覚をもちはじめたことを意味しているのです。
 のちに藤田邦昭が都市再開発部門に、同じく専門家として参加することでそれが明確になって参ります。
 それまでの家族的といってもいい共同体にもいくつかのルールがありました。たとえば設計の分野で内職をしないこと、個人の才能はRIAに投企されること、したがって雑誌などに発表される場合、設計者はRIAであり担当者個人でないこと……等々です。
 RIA10周年のささやかなパーティが開かれた山口邸の中庭で、前川国男氏が皮肉を交えて語った次の言葉は忘れられません。
「一軒一軒の住宅をコツコツと100年間に250もつくったこのしつこさは、とても私にはできないことだ。それにもまして山口がそういう仕事をする人間をよくも集めたものだと感心している……」と。
 われわれはしかし、このときにRIAのささやかな過去の歴史を乗りこえる決心をしはじめたように思います。
 いま日本の建築もひとつの転期にさしかかってきました。戦後も20念、少くとも表面的には未曽有の安定期をむかえています。公共事業投資の飛躍、大企業の先行投資の拡大、中小企業の再編成等が相つぎ、ようやく地方都市も生産開発の刺戟を受けています。多少の経済変動が不況をつくり出すにしても、所得は増加し、求人難が増大する一方です。
 ある見方をすれば一種の産業革命でしょう。このような経済面の成長にによって、国民の生活面、たとえば住居や福祉施設の立ちおくれがハツキリして参りました。われわれに与えられた課題はとてつもなく大きなものとなっていきます。
 RIAは東京と大阪のほかに1962年には名古屋に支所を設け活動面を広げるとともに、在来東京を本所としていた形を修正し、1965年から東京・大阪・名古屋の3支所とし、その統括をする本所機構をあらためて東京に設けることにしました。
 日本の社会成長に対応してアミの目を広げようという考えです。これは仕事の内容にもかなりの変化となってあらわれています。
 大阪を中心にした関西圏では、都市の再開発や中小企業の統合がかなり合理的に処理きれつつあります。新しい日本の区画整理はやはり文化と歴史の深い上方(かみがた)からはじまっているようです。RIA大阪事務所はこのような新しい動態に対応して都市計画部門の開拓の体制をとっています。都市計画は派手な現代の主流を任じているようにみえますが、実際の都市開発の仕事はもっと時間のかかる地味なものです。
 10数年にわたって続けてきた住宅設計は生活を守るための装置としてのわれわれの提案であると同時に、ビルや庁舎によって代表されかねないわが国の建築界に、非生産的なもののもっている潜在的な意味(50年後)をになっているのです。
 一般建築(ビル・病院・学校その他)・住宅(個人住宅と集合住宅)・工場などのほかに都市設計が大きな課題になっていることは申すまでもありませんが、新しい開発の分野として、レジャーまたは遊びの装置が登場しています。いままでの観光開発のやり方を止揚して、次の時代の人間像の求めている生活系全体のとらえ方を、われわれは建築家として都市計画家として、またはデザイナーとして、受けとめて行きたいと思っております。RIAの創造性はいつまでも続いて行くことになるでしょう。

●都市

作業の内容

 対象別に分類をしてみますと、いちばん古くから手を着けてきた「市街地再開発」があります。
 再開発はその後、技術的にも発展をして、作業プログラムの3段階(企画、推進、実施計画)のそれぞれの技術を独立した手法で展開させており、防災街区、市街地改造、区画整理の各手法、さらに、各地区の立地条件の裏づけ、組合結成推進業務、実施設計のための組織論等多岐に亘っています。
 次は「企業団地」で、大阪、名古屋、茨城の各地で実施に至るまでの作業を行っています。
 第3は、「住宅立地」で、大規模な住宅団地の実施計画、開発委員会への参加、住宅公団の委託研究、住宅都市の経営計画等、官庁、民間を問わず、実施チームとして巾の広い窓口をもつようになりました。
 第4は、以上の各部門を総合する基本調査、および基本計画です。これは「都市計画」とでも呼ぶより仕方がないのですが、計画の対象が拡がってくるにつれて、広範囲の作業を単独で、あるいは協同作業で行う必要にせまられてきたことを示しています。

RIAの方法

 RIAの組織からいっても、多角的な技術陣をつくることは好ましいことなので、都市計画部門はその特色を生かして、窓口を広くすること、総合的な判断力をもつことに重点をおいています。
 ただし、都市の問題は、巨視的な地点に立った場合と、現実化という限られた立地をする場合とで、構造的な矛盾点をもっています。
 これは、組織内部でも、重要な対立概念となってあらわれます。理論側と窓口側とでもいうべきでしょうか。同時にこの2つの立場を経営というペースに乗せていかねばならないことことから、極めて独特の理念なり、技術なりをもつようになりました。
 その方法論でも多元的だということは、実現化ということから方法論が組まれているからにほかなりません。 

その経歴と性格

 RIAの都市計画部門は、まず大阪支所で始められ、既に6年の経験をもっています。
 現在では、東京、名古屋、大阪の各支所を横につなぐ強力なチームになっており、仕事の内容も、基本的な調査から、現実的な窓口業務、権利調整、更に実施設計まで広範囲なものになっています。
 RIAの都市計画の特色は何といっても、現業としての強みであると言えましょう。
 現業というのは、実際に計画され、さまぎまなプロセスを経ながら実施されていく一貫性を指すものです。基本的な調査と、それを骨格として作成されたマスタープランを、どのようにして実施するか、どんな仕事が必要なのか、どのようなことが起るのか、という全段階の作業が含まれているのです。
 こうした特色は、今日の都市計画のもっている問題の複雑さから考えてみますと、想像以上の困難さを経験してきたために獲得されたものなのです。
 いいかえれば、この種の仕事にたいする、周囲の理解が想像以上に高かったためでもあるでしょう。
 RIAでは、仕事を段階別に大きく区分をして3つに分類しています。
  第1段階 企画、基本計画 広域調査、基礎調査、実施のためのマスタープラン作成
  第2段階 企画運営、推進 窓口機構のバックアップ、マスタープランの推進業務
  第3段階 第1第2段階を経て、実施設計に至る諸実務
 以上の3段階を通して実施されたものに、和泉駅前計画、名古屋紳士服団地、大阪既製服縫製近代化協同組合枚方団地、その他があり、各段階毎に報告書作成、マスタープラン作成、実施計画、推進事務のコンサルタント等を行ったものは30件を算えます。

●建築

沿革

 今日のRIAは、都市計画から住宅、家具に至るまでの広い範囲の設計活動を行なっていますが、その母胎はやはり建築(特にここでは一般建築をいっています)でありましょう。
 そうしてこの建築部門でも、いろいろな種類の建物にその対象が及んでいます。しかし、敢えてRIAのこの部門での特徴を指摘すれば、特に数育、文化、生産の3つの施設にカを入れていると言えましょう。
 教育施設では、事務所開始以来10数年間も継続して、総合計画から一棟毎の実施設計まで行なっている神奈川大学をはじめ、公私立の高中小学校、更には看護学校、幼椎園に至るまで、数多くの設計例が見られます。
 そのいずれもが、新しい教育制度の研究検討から出発しているため、新しい教室の型、設備の充実、構造の新しい開発に焦点がしぼられています。総じて、素朴で健康な表現をとってきたのも、学園に集う学生、生徒らにのびやかな場を提供しようという狙いです。特殊な例ではありますが、在日朝鮮人の教育のために建てられた朝鮮大学は、その素朴さと豪快な表現を買われて1962年度の建築年鑑賞を授与されました。
 文化施設では、会館建築として日本全国の美術家の集りである日本美術家連盟の美術家会館や、原ノ町市の市民会館、等があり、その他計画では東京の大田区民会館、4Hクラブ会館、戦没者遺族会館等があげられます。
 また尾崎記念会館は、競技設計で入賞作品として認められました。これらの会館は、それぞれの特質をいろいろな構造表現で、それぞれ記念的に扱うことを試みています。
 また宗教建築として、3つの教会と4つの寺院がありますが、これらも厳しい経済条件の中で象徴的な大空間を作ることを意図しました。それに最近完成した新制作座文化センターは、新しい主張をもつこの劇団の性格を、大胆な形で把え、美しい自然との対立と調和を求めてみた作品で、これはフランス、オランダ等の諸外国誌にも発表され、注目されています。
 生産施設としては、事務所設立当時の大日本製糖堺工場から、東京部品、東芝乾電池、日本インターナショナル整流器等の中小工場、それに最近の新日本パイプ、枚方既製服、名古屋既製服等の大工場に至るまで、その例はかなりの数が挙げられます。中でも自動車部品の中工場である東京部品は、日本の代表的工場として英国の展覧会に展示されました。
 これらの工場は、特に構造を研究した結果、経済性の高い大空間可能の特殊構法を駆使しています。この構法のあるものは、その後の建築界にかなりの影響を与えてきました。
 この他、ホテル、族館、クラブ等の観光施設や、各種の病院、共同の食事施設、講堂等の厚生施設、市街地のビル等の商業施設が数多く見られますが、先の3つの施設が目立っているのは、社会に対してもっともその直接的な重要度を高く評価していることでもあり、またそのスタッフの気質にも合っていると言えましょう。
 都市、地方を問わず、官営、民間を問わず、日本の国土にもっとも進歩的なかたちで定着させねばならぬものとして、RIAの技術を使って行こうとする姿勢が見られるわけです。

方針

 RIAのいままでの建築に対する方針は、近代建築の考え方を基本として、構造そのものを強く表現として押し出す方向を取ってきました。したがって、装飾過剰に堕さないことをお互いに一つのテーマとして、持ちつづけてきたわけです。
 これは、日本の経済事情にも、また、日本人の素材愛好の精神にもつながると考えたことにもよっています。事実、その経済性のある効果と、RIAの作品へのある種の共鳴は得てきたと思われます。
 そうして作品は、大なり小なり、こういった表現に忠実であったことを現在認めたいと思います。
 しかし、これからは、次の時代を迎えようと考えます。すなわち、次の目標は、質を高める努力にあります。構造表現主義ともいえる今までの手法は、たしかに日本的に素朴な美しさはありますが、逆にあル意味では素気ないということにもなりかねません。そこで、RIAは、今、これに豊かさ、特に空間の豊かさを加えるために、質を高める設計態度を更に強化しようとしています。
 それは、まず環境と建築の関係をよく研究することにつづいて、建築、技術、材料研究が必要です。それにまた、構造を主体として空間と、同時に、その空間に対立した室内空間だけの研究も必要です。これらの多方面からの追求は、現在の都市計画、構造、住宅と家具等の部門相互の研究によって、新たな可能性が生れると思います。
 更に、もうひとつの目標として、公共性と営利性をどうバランスさせるべきかの追求です。公共性と営利性は、企業性の強い観光開発、商業ビルはもとより、公共建築でさえも、今日の日本では問題になるところです。
 これをただ一面的に芸術家としてだけの目で、また逆に商売人としてだけの目で見たのでは、建てられる建築は、一塊の使えぬ廃墟になるか、徒らに無株序な混乱の場になるかです。
 RIAの組織という多くのスタッフの眼があらゆる角度から向けられて、各々の建築物がもっている価値をはっきり確認し、5年、10年、20年後も社会に耐えうる建築物の価値を残しておけるように考えるのが、非常に大切と考えます。
 多くの人達のための共通の利益という公共性と一方個々の人々や組織体の効県ある企業性に正面から取り組むことによって、新しい建築の表現が生まれるのではないでしょうか。

●住宅

沿革

 RIAが発足してから10数年問、この間絶えずRIAは住宅を問題として取り上げ続けてきました。
 住宅こそ建築の基本であるといわれながらも、えてして経営上二次的に扱いがちな設計事務所の中にあって、これほどまで息の長い例はあまり見当らないようです。
 この執念は、RIAのひとつの特長を物語っているのです。つまり、住宅を作ることの中に、現在の社会を批判し、更に人間生活の可能性を探ろうとするスタッフ共通の強い願望が現われているのです。
 このことは、一般建築、都市計画、構造の諸部門に拡大された今日のRIAでも、根強く残され、それが住宅を大事にする結果となっているのが、なによりの証拠といえましょう。
 従って、RIAの住宅は、戦後の日本の住宅設計の歴史とともに歩み続けてきたわけです。昭和27年に新制作展出品のローコストハウスは、当時の社会性を背景にしながら、RIAの発足という若々しい気構えによって生れました。
 それ以後、社会、経済、技術、造形、それに内部の組織といったさまざまな問題にぶつかり、揺れ動きながら、個人住宅の設計ではその数300以上にも達する作品を手掛けてきました。
 この数多くの作品の紹介は既に、多くの専門誌、一般誌に取り上げられていますので、ここでは省略していますが、特に中小住宅への連続した追求には、建築ジャーナリズムでも、かなり以前から評価されています。また、フランス、ドイツ、オランダ等の外国誌や、外国向の日本の代表的建築の紹介の書物にも、特色ある幾つかの作品が掲載されています。
 住宅に着目しつづけてきたRIAは、これらの、いわばオーダーメイドの個人住宅に限らず、建売住宅や量産住宅といったレディメイドの住宅への試みや、集合住宅の研究もその間に行なっています。これらは数多い個人住宅設計での日本の生活の把え方、社会経済と技術との相対的なまさぐりによって得た蓄積を利用して、現実の状態を一段階引上げる方向をとってきました。
 しかし最近になって、RIA内部の都市計画セクションの拡充や、建築技術スタッフの充実によって、在来の部分的な、また受動的なものから脱して、総合的な、主体性ある新しい方向に進もうとしています。
 これはRIA内部の問題だけでなく、これからの住宅問題を扱うときに総合的な地点でもどうしても考えなくてならない必要は、実は今日の社会が要求していることでもあるのです。 

方針

 今日はイメージの時代とよくいわれます。しかしながら、日本の住宅問題は、イメージを盛り込む以前で混沌としているのが現状です。住宅政策から、住宅設計家に至るまでイメージなしといってよいでしょう。
 RIAは、この時点でこそ、今までの数多い設計からつかんだものを足掛かりにして、主体性のある方法論を提案しなければならない時期に入りました。
 これからのRIAの住宅の方針は次の2つです。
1 住宅環境の整備をも目的にした量産設計の研究
2 新しい住宅の可能性への徹底した研究
 量産設計は、プレハヴ等の量産住宅と異なり、設計をRIA独自の方法で、短期間に数多くの住宅を設計することを意味しています。
 これは、今までの数多い仕事の蓄積を使って合理化した、ひとつの設計工程にまとめ上げ、あとは、設計者というよりもカウンセラーとしての資格で、1軒1軒の家を頭脳的に診断してゆく手法をとろうとしています。それゆえに、今までよりも、もっと一般的、普遍的な設計であり、その対象も、より多くの、より一般の人々ということになります。
 この方法は、多くの人々に、建築家の判断による住宅を提供しようという試みとも、多くの家々が建ち並ぶ住宅街や、住宅団地の環境を少しでも整備させるためとも考えています。
 都市計画的な立場からのからの住宅の診断と造成、団地全体の環境整備、といった全体的な問題に対して個々の家々の具体的な建て方や、相互の関係は極く部分的な問題です。だがこの部分的なものが、逆に全体にも具体的な影響を強く与えることがしばしばあります。
 そこでRIAとしては、都市計画部門に全体的な問題を、住宅の量産設計部門に部分的問題を、同時にふりあてることによって、団地そのものを総合的に指導することが可能だと考えたわけであります。
 この量産設計グループは、多くの人に馴じまれるよう、RIAホームカウンセラズと命名し、その活動を開始しています。
 次に新しい住宅の可能性の研究というテーマは、量産設計という、いわば一般解を目的にしたものに先行して、新しい型を生む開発の意味をもっています。
 量産設計が、極めて短い期間で数多い住宅を診断し設計してゆくのと違って、十分な時間と、いろいろな新しい角度からの研究をする特製の住宅です。
 これは、現在の忙しい設計活動では、とかく忘れがちになるものですが、これなくしては新しい設計の財産を殖やすことはできません。そこで、RIAは、新らたにその決意を固めて、更に新しい可能性を引き出すための研究をやろうとしています。
 10数年間特に主張しつづけてきたプラニング(間取り)の研究をより進める一方、材料や構造の開発や、室内や家具への提案等によって、これからの住宅のイメージを与えることが課題です。

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