「宝庵由来記」第1章・山口文象設計の茶室

宝庵由来記
モダニスト建築家山口文象による写し茶室

伊達 美徳


はじめに

 「北鎌倉 宝庵」(ほうあん)は、1934年創建の木造数寄屋の茶室建築である。
 北鎌倉の浄智寺谷戸の奥にあり、風趣ある露地庭、八畳と四畳の二つの茶室を持つ瀟洒な姿の数寄屋、一畳台目の小間茶室を抱く大胆な造形の茅葺草庵、甘露の自然湧水井戸などが、緑の自然にいだかれている。
 文人ジャーナリストの関口泰氏が自邸敷地に建築、設計は山口文象氏であった。1934年の建築家・山口文象といえば、ベルリンのグロピウスの下から帰国して、日本歯科医専病院のモダンデザインで一躍売り出した時期である。その当時のモダニズム建築運動の若手リーダーであった。その山口の純和風しかも「写し」茶室である。
 創建時から個人私宅の茶室であったが、2017年に鎌倉古刹の金宝山浄智禅寺の所有となり、「宝庵」と名づけて、お茶会など多彩な文化活動の場として、2018年4月から一般利用に供されることになった。
 山口の仕事を追っているわたし(まちもり散人=伊達美徳)は、ウェブサイト「山口文象+初期RIAアーカイブス」で、「旧関口邸茶席・宝庵」として概要を紹介しているが、これを機会に補足調査をして、その由来などを詳しく記しておくこととした。
 「宝庵由来記」と題したのは、建築主の関口泰氏が「吉野窓由来」と題して、この「宝庵」を創建するもとになった草庵茶室の由来を建築当時に書いているので、それを受けたつもりである。

2018年1月30日  

目   次
第1章 北鎌倉に山口文象設計の茶室を訪ねる
第2章 夢窓庵の由来
第3章 常安軒の由来
第4章 宝庵を興し守り伝える人々
北鎌倉に「宝庵」を訪ねて茶庭の露地を行く


第1章 北鎌倉に山口文象設計の茶室を訪ねる

1.北鎌倉の山口文象設計の茶席建築

 2017年の秋も深まり初冬になるころ、北鎌倉に紅葉狩りに行ってきた。いや、実は行ってみたら紅葉が美しかった結果なので、真の目的は山口文象(1902~78)の和風建築狩りであった。訪ねた先は、山口文象設計で1934年に建った元は関口邸の茶席、今の名は「宝庵」(ほうあん)という2棟の茶席である。

 わたしは1976年に訪ねたことがあり、その時は山口文象について行った。そして今回は建築家の小町和義さんと一緒だった。小町さんは山口氏の愛弟子であった人で、和風建築の名手として知られる。
 1976年に訪ねた目的は、山口文象氏の作品集をつくるために、いくつかの作品の現地を訪ねており、ここもそのひとつだった。評伝を執筆する建築評論家の佐々木宏氏と長谷川堯氏そして建築史家の河東義之氏たちも一緒だった。
 山口氏はここを訪ねたのは40年ぶりと話していたから、鎌倉で他にいくつか設計していたのに、完成後はご無沙汰だったらしい。その頃、わたしはRIAに在籍していて、この作品集の編集執筆担当だったからついてきたのだ。その2年後に山口氏が急逝したので作品集の出版は遅れて、1983年に『建築家山口文象・人と作品』(RIA建築綜合研究所編、相模書房刊)として世に出た。RIAは、山口氏が戦後に創設した都市建築計画設計組織で、今は㈱アール・アイ・エーという。 


 その作品集の編集作業が終わっても、わたしは山口文象作品の追っかけを趣味でやっていた。わたしは40歳頃に建築設計から都市計画に転向して、その後は建築を趣味にしてきた。大学での出自が建築史だったから、近代日本建築史における重要人物としての山口文象氏を追いかけるのは、なかなか良い趣味だとわれながら思うのである。

 だが、そろそろ山口文象氏追っかけも種切れになったし、わたしも終活年代にも入ったので、2014年に山口関係の蒐集資料全部をRIAの山口文象資料庫に寄贈してしまった。それで山口文象追っかけを止めていたのだが、ここで偶然の機会に恵まれて、久しぶりに山口建築の茶席を訪問したので、このことを書いておこうと思う。
 その前に、今回同行した山口文象の直弟子の小町和義さんのことを書かねばならない。

2.小町和義さんの展覧会のこと

 小町さんは、1942年に16歳で建築家・山口文象氏の書生となって弟子入りして、1949年まで戦中戦後通じて山口氏の下で仕事をした。その後、建築家・平松義彦氏の下で仕事をして、1969年に独立して「番匠設計」を主宰し、寺社や数寄屋建築の名手として知られる。八王子の宮大工棟梁の家に生まれたのに、山口文象氏に弟子入りして建築家の道を歩んだのは、大工の家に生まれて建築家となった山口氏の歩んだ道に似ている。

 今回の北鎌倉宝庵の訪問は、じつは小町和義さんから、行きたいと依頼されたのであっ
た。それは八王子の小町和義作品展会場で、久しぶりに小町さんに会った時だったが、卒寿と見えない元気そのもので、張り切って自作の解説をしておられた。
 小町さんの地元の八王子で、多くの市民や小町さんの弟子たちが、ボランティア活動で展覧会に持ち込んだとて、幸せなお方である。会場にいっぱいの模型とパネル、茶室の立て起し模型、そして原寸の組み立て茶室もあって立礼抹茶も楽しむようになっている。
 パネルの一枚には、小町さんの師匠であった二人の建築家、山口文象と平松義彦の大きな顔写真が見える。あの会場であれほど多くの人が来るとは、会場単位面積当たり人数は、同じ頃にやっていた国立ギャラリーでの建築家・安藤忠雄展と比べてよい勝負だろう。建築家って今は人気ある商売なのかと思った。

 そして会場で驚くべき嬉しいことを小町さんから聞いた。展覧会のために資料を整理していたら、山口文象設計の関口邸茶席(現・宝庵)の図面が出てきたとおっしゃる。その図面は、山口文象氏の弟の画家山口栄一氏から、彼のスケッチ帖と共にもらったものとのこと。
 どちらも山口文象氏の重要資料だから、RIAの山口文象アーカイブに入れたいが、その前に図面をもってその茶室を見に行きたいので、今の持ち主に連絡してほしいと頼まれた。面白いことになった。なお、小町さんは1941年から山口氏の弟子だから、この茶席の設計にはタッチしていない。

 以前に訪問したときのこの茶席の主は、鎌倉の建築家・榛沢敏郎氏であったが、今もそうであるかわたしは知らない。そこで知人の鎌倉の建築家・福澤健次さんに尋ねて、現在の茶席の主の浄智寺となり、その茶席の運営受託した「鎌倉古民家バンク」の島津克代子さんにつながった。今回は小町さんと共に島津さんを訪ねて見せていただいた。浄智寺住職の朝比奈恵温さんも、お顔を見せてくださった。

 旧関口邸茶席は、1975年と同様に健在だった。この谷戸の庭と建築を愛して、保存修復に手を尽くした榛沢敏郎氏のおかげである。茶席建築の名手の小町さんが、新発見図面を見つつ解説してくださって至福の午後だった。

3.宝庵と名を変えた旧関口邸茶席の概略

 簡単にこの茶席の経緯を書いておくと、1934年に山口文象の設計で建てたのは、1930年からこの谷戸に住み始めた、ジャーナリストの評論家であった関口泰氏(1889~1956)だった。朝日新聞論説委員であり、横浜市立大学の初代学長であった。

 茶室は2棟あり、ひとつは草庵風の茅葺の小間茶室であり、もうひとつは4畳と8畳の2つの茶室を持つ数寄屋建築である。広い茶庭の露地をもつ。
 関口氏の没後の1970年ころのようだが、これを買い取り引き継いだのは、北鎌倉に在住の建築家・榛沢敏郎氏であった。
 1976年に訪問した時に榛澤氏から聞いたところでは、長く使われずに荒廃していたし、常安軒は敷地内で移築してあったのを、建築も配置も復元的な設計をして、職人を京都等から呼び寄せて、丁寧に解体し、今の配置に移築し、修復をして1972年ごろに完成した。そして設計アトリエの仕事の場とした。

 2017年に榛沢氏は土地を地主である浄智寺に返還し建物も譲渡した。浄智寺はこの茶席を保全して一般公開活用する英断をくだし、「鎌倉古民家バンク」が借家して運営することとなった。同バンクは茶席敷地の南に隣接する「たからの庭」の運営を行っている。
 この茶席全体の名称については、関口氏も榛沢氏も特に名づけたことはないようであり、これまでは建築関係誌などで「旧関口邸茶席・会席」として紹介されてきた。

 それが今、2018年春から公開するにあたって、所有者と運営者は「北鎌倉 宝庵」と新たに名付けたのである。その由来は金宝山浄智禅寺による。
 そして2棟の茶室建築の内、大きいほうの数寄屋建築を「常安軒」と呼ぶ。その破風に

「常安軒」と墨書した板額が掲げてあるからだ。東慶寺の井上禅定師の揮毫であり、浄智寺住職だった1981年以降に掲げたのだろう。
 もうひとつの茅葺草庵の茶室は、「夢窓庵」と呼ぶ。それは関口氏がそう名付けていたことが、最近になって判明したからである。それは氏自身の筆になるその草案の墨絵に「夢窗菴の図 黙山人寫」との書がある色紙が見つかったのである。黙山人とは関口氏の号であろう。

4.関口泰氏が愛でた浄智寺谷戸の風景

 宝庵は、鎌倉の谷戸(やと)と呼ばれる三浦半島の典型的な地形の中にある。こ のあたりから半島特有のデコボコ丘陵ばかりで、海辺に沿ったところの外には平地が少ないので、12世紀ごろの昔に鎌倉幕府ができたころから、人口増加に対応して、丘に切りこむ狭い谷間に宅地をつくってきた。
 わたしもながらく鎌倉の谷戸に住んでいたから分るが、谷戸は谷の向きや深さによっては、日中のほんの少ししか日が当たらないし、奥の方になれば坂道は急になり更に階段になって、歳とると住みにくいところだ。

浄智寺谷戸と宝庵の位置(左の丸の中)   右に鎌倉街道

 浄智寺谷戸は南上りであり、宝庵はその奥にある。緑の丘陵に囲まれていて、南が高く北下りだから陽光が照る時間は少ないが、四季折々の変化を見せる豊かな自然景観に恵まれている。

 この茶席をつくった関口泰は谷戸を愛し、短歌「浄智寺谷風景」や随筆「小鳥と花」に自然を描いている。鶯の声で目を覚まし、彼岸桜、紅梅、山桜、染井吉野、大島桜、蝋梅、雪柳、緋桃、芍薬、牡丹、山躑躅、山吹、山藤などの花々を愛でる日常を、優雅な筆にしている。

吾子のゐる書斎に近く乙女椿紅梅植ゑし庭師翁は

植込の向ふは茶庭こちらには牡丹植えんと苗を買ひけり

大き巌うしろになしてこの梅はことしれうらんと咲きにけるかも

吉野窓の茶室の前に白萩の花枝長くしだれ咲きたり

むらたけの竹の葉末の雫さへ落さぬほどの朝の風ふく

この谷は雨こそよけれ山百合の花しろじろと浮きて見えける

         (関口泰著『空のなごり』より引用)

 関口氏がここに居を構えたのは1930年、41歳だった。多くの評論や随想をここで筆にして世に送り出した。

 わたしが家を建てた昭和五年頃は、御寺より上にはわたしの家一軒だけで、(中略)私が浄智寺谷を初めてみたの は、昭和五年の二月の末であった。もう此の時は今の道が一本荒野を貫いてゐる姿で、道の両側は枯れた茅萱と草とで足を踏み入れるにも困難であった。(中略)それでその時すぐに約束して三月から借りる事にしたのである。(中略)四月二十六日から建築を初めて七月末には引っ越してきたのであった。       (関口泰著『金寶山浄智禅寺』後書きより引用)


 この家が茶席敷地の北に今もある関口家の母屋だった建物であろう。この5年ほど後には、陶芸家の久松昌子氏がさらに奥の一段上に窯を築いたが、そこが今の宝庵の南隣にある「たからの庭」である。
 関口氏がその生を閉じたのは1956年春のこと、主のいなくなったこの茶席をしばらくして引き継いで再興したのは榛沢敏郎氏だったが、この建築家もこの谷戸の自然と茶席を愛していたからこそ、今、3代目の主にバトンタッチができるのだ。

第2章に続く)

参照→山口文象+初期RIA

0 件のコメント: