1936番町集合住宅

 1936番町集合住宅

・建物名称  番町集合住宅

・建設場所 東京・千代田区麹町

・竣工時期 1936年

・資 料 『アトリエ』1937年3月号

  「番町の家に就いて」:『国際建築』1936年11月号、

  『建築世界』1936年11月号)

  「番町の家」:『住宅』1937年1月号

●建築データ

 ・場所:麹町区下六番町八および九番地

 ・敷地面積:687.79坪

 ・構造:木造2階建て、テラスハウスの型式連続住宅(一部独立住宅)

 ・住戸規模:A型(間口5.5間)、B型(3.75間)

 ・仕上:外壁は白色モザイクタイル貼り、窓枠・テラス鉄柱など濃紫ペンキ塗り

 ・暖房設備:各住戸それぞれセントラルヒーティング

 ・月家賃:110~150円(当時の都市勤労者の月平均収入100円未満)

●図面(山口文象事務所製作、RIA所蔵)

・立面図

・矩計図


●写真






・A型独立住居 (外部白色モザイクタイル張、目地色モルタル濃紫色。窓ホイトコ蝶番使用、木製片開連窓、濃紫色ペンキ仕上。塀モルタル白セメント刷毛引き仕上げ。)


独立住居 左方はB形、右方はA型

庭よりテレスを見る。食堂居間。
テレスの柱は濃紫ペンキ塗り仕上。
テレス床は焼過3等煉瓦、左方戸袋の前は小温室。

・B型4戸連続住居


B型4戸連続住居の屋上より 屋上は物干し場に使用


●番町の家に就て     山口蚊象

(『国際建築』1936年11月号7ページ)

 現在完成されたこの建物は敷地の奥へ二列横帯に並んでゐるが、始めは前面四間道路に添って計画された。そして有島家先代からの尨犬な日本家を分解した三棟の貸家は奥へ配置したこが、建築條例に抵触するとか云ふので現在の様に変更の止むなきに至ってしまったものだ。常識から云へば集因的建築は可及的に前面道路へ押出し、有事の避難にそなへるべきものではないかと私は今でも考へてゐる。

この種の計書では常然セントラルヒーティングにすべきものであるが、最初(A)の家二軒のみ設備するに止めたので、各戸に付ける様になったのは中途からであったため、総体的に考へることが出来なかった。

木造連続家であるため、各戸のへだて壁の防音構造は特に注意した。それは通貫へ両面から「テックス」を張り、合端ヘパテを込め、その上へ胴縁を渡して木摺打ラス張りモルタル塗りとした。

結果は比較的良好の様に思ばれる。

窓は芝園橋の青雲荘アパートと同じく、竪枠なしの外開きホイトコ釣込みである。

浴室を木造の二階に設けることはいろいろ議論があるが、床及浴槽の防水を完全に施工すれば問題はないと信じてゐる。こゝでは始め多少漏水したが、これは瓦斯焚口のマキハダに不完全のところがあったためで、防水工事によるものでないことを確かめ得た。

浴槽には人造石下地へ軽クリートを使用し、放熱に備へた。平面計書には最も時間を費し、比率の増大を意図した。有効面積92%。

この「番町の家」が本当の意味に於けるジートルンクであるかどうかは別として、この計書を実施されれた有島先生の英断に敬意を表し、また若輩の私に設計工事に開する一切を一任して下さったことを心から感謝を述べたいと思ふ。


●純独逸風 『集合住宅』(ジードルング)を
 有島氏(麹町下六番町)が計画 アパートの一進歩

  (1936年の新聞スクラップー山口文象事務所保存資料)

 故有島武郎氏が生前の作品中に或は書簡文中に「番町の家」としてのせられ有名だった麹町区下六番町10の邸宅はその後一時文芸春秋社と平凡社が仮社屋に借りていたことがあったが最近は七百坪の名庭は荒れるにまかせペンペン草やあざみの花が咲いていたが、今度令弟有島生馬氏が同所に純独逸風の集合住宅「ジードルング番町の家」を立てることになり思い出の邸は沢山の鳶職が入って取り壊している。「ジードルング番町の家」は先日本紙に掲載した「町田外人街」と同様に在京外人、中流以上の人々に、ホテルより手軽に在来のアパートより一層機能的に、家一軒借りるより文化的な住み家を与へる目的で、青年建築家として水道橋の東京歯科医専その他進歩的なデザインで有名な山口蚊象氏がデザインに当り、ドイツのウォールグロッピュース氏流のテイピカルなジードルングの設計を終り目下建築許可の申請中で八月末日まで竣工の予定である。山口蚊象氏の設計によれば同住宅群はA一型、B二型の二種を基礎型として組み合わせたものでA一型は独立家屋、B二型は連続家屋として平面計画の有効面積は九十六パーセント、A一型は新夫婦に子供一,二名、B二型はそれより多い家族を収容しうるやうにし、階下は純洋風の居間、サロン、厨房、様式便所、玄関等を作り階上は洋風、和風二様式の寝室、二戸共同の洗濯場、物干場等の文化の粋を盡し、低圧温水暖房のセントラル・ヒーティングを採用したわが国最初のジードルングである。工費7万円内外で一棟一戸建て一つ、三戸建て一つ他は独立建てとし一四家族を収容し得るもので外装は総白タイル張り「町田外人街」よりなほ一層ユニーク外人街が出来上らうとしてゐる。

有島氏の談
 兄貴の家も随分そのままに放置しておきましたが、いつまでもそのままにして置くわけにもゆかず、今度町田外人街に刺激されて理想的なジードルングを建てることにしました。住宅地としてはこの遍は東京第一等地ですし、欧州を旅行してかねがね本場のジードルングにあこがれてゐたので一念発起いま山口君と大童になっていいものにしようと頭をひねっています。地代を支払ってはこの仕事は引き合いません、とにかくトランク一個、スーツケース一つ提げてくればすぐ住めるものに、しかも外装は飽くまで瀟洒たるものにします。
 Siedllung ジードルングはアメリカのアパート・メントハウス、イギリスのフラットなどとほぼ同様の社会性を持って生まれたもので、わが国では集合住宅と訳していますが、アパートを今一般●学的に帰納したものと解してよく、暖房、冷房、排給水の単一方式から進んで購買部、託児所、専用バスまでも持つ大家族群落でフランスのコルビジェ氏や目下来朝中ブルノタウト等は多くのジードルングを手掛けて世界的に有名な人々です。アパートや何々荘等は既に古く今後はジードルング時代となりませう。


●山口蚊象氏の活躍

 山口文象事務所のスクラップブックの中にあり、そのページの端に「建築世界」の記入がある。多分、1936年のいずれかの月の号であろう)

 何ものをも切り捨ててこの世を離れようとした故有島武郎氏の残した唯一の世俗的資産――麹町下六番町の屋敷跡にいま近代的な明朗な独逸式集団住居(ジードルング)が建設され八月一杯には故人思ひ出の地に「番町の家」として完成しやうとしてゐる。
 この屋敷は文豪愛住の家で晩年も売り払って牛込に移転しようとして遂に果たさなかったもの、没後十三年宏大な屋敷のこととて適当な買い手もなく一時は平凡社などに貸して現在にいたったものである。その中故人の令弟有島生馬氏がドイツから帰って来た建築家界の鬼才山口蚊象氏や文壇画壇の人々にすすめられて着手したのが今度のジードルングだ。
 工事は既に七分以上進んでいる。生馬氏も時折絵筆を捨てて建築の現場に現れて特異の色彩に独特の凝りを見せている。敷地は七百坪十三戸はそれぞれ独立家屋で浴室・食堂・臺所が附属して硝子を多く使ひテラスや芝生はぜいたくにとってある。八月にこの白亜豪壮のジードルングが完成すれば日本には珍しい集団住居の試みと鋭角的な山口氏の建築様式は各方面注目の的となるであらう。
 同氏のもう一つの近作は三田四国町芝園橋畔に出来た全日本労働総同盟のアパートと病院である。この計画は労働会館多年の懸案で昨年五月政府から四萬五千円の低利資金を借り受けて昨年十月工事に着手したもの、流石に管理人松岡駒吉氏は宿望を達して嬉しさうだ。
 一階は全部勤労者階級の医療費軽減のスローガンを実践化した友愛病院にあててゐる。洋式病室二間、日本病室七間で各科を網羅した綜合病院、レントゲンと太陽燈も一両日中には運び込まれる。病院長には日本医大教授中川博士が献身的に働いてくれ、社会医学で鳴らした安田徳太郎博士や虎ノ門外科病院長福田洋州博士が好意的に応援することになってをり、その他新進スタッフで万全を期している。
 二階と三階は青雲荘アパート、部屋数二十九、一般勤人と熟練労働者を入れるさうだ。電燈を入れて畳一枚三円、ガラスをふんだんに使ってぜいたくな建物だけに部屋は明るくて気持ち良い。


●国際建築の推進 佐々木宏

(『建築家山口文象 人と作品」RIA編 1982 相模書房より 抜粋引用)

 有島生馬邸跡地に,主として在日外国人向けに建てられたものであるが,それだけに興味深い面をもっている.一つには設計者として山口がばれた理由が,ドイツへ留学して本場のジードルングについて造詣が深いだろうと期待されたこと,もう一つは,ただ外国人向けの住宅でほなく,日本人にも住むことのできる新しいプランニングの集合住宅の可能性の追求も織りこんだ点である.
 意匠だけのインターナショナル・スタイルではなく,プランにおいてもインターナショナルなものをつくり出そうとしたことは,まさに,グロピウスの門下生としてふさわしい課題だったといえよう.
 AタイブとBタイブのプランのなかで,8戸のBタイブの2階に押入,床の間付の6畳問がとられているのは,明らかに日本人向けの住まいを考慮したものである.
 2階建連続住宅の各戸ごとに塀で区切られた庭がついている構成は,第二次大戦後にミース・ファン・デァ・ローエがデトロイトのラファイット地区の住宅団地で試みた方式の先駆的なものとみなされよう.
 また車廻しをもつクル・ド・サックの採用も当時としては新しい試みといえよう. 日本歯科医専といいこの番町集合住宅といい,ル・コルビュジェのサヴォイ邸などと並んで,車の空間的処理が建築デザインの直接的なテーマであって,それが明確に表現されていたというのは,一つの時代の反映だったのだろうか.

参照:山口文象総合年表  建築家山口文象+初期RIA  まちもり通信



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