1927白木屋

建築家山口文象(+RIA)アーカイブズ:制作・伊達美徳‎ > ‎

1927白木屋

●建物名称  日本橋白木屋(第1期) 石本建築事務所で設計担当
●建設場所 東京都中央区日本橋
●竣工時期 1927年

●写真、図面等





●記   事

 ◆1926年山口文象は石本喜久治建築事務所に移籍 伊達美徳
     (「新編山口文象・人と作品」2003より)

 石本喜久治は、東京日本橋で三越とならぶ有名百貨店・白木屋の設計を受注して、竹中工務店から独立した。山口栄一の話では、清水組、石本、山口(途中辞退して石本を推した)などの5人のコンペにより、石本にきまったという。
 山口は石本に誘われて、創宇社同人の野口厳とともに石本事務所に入所したが、石本は京都に移って片岡・石本建築事務所を開設したので、在京の山口は主任技師として白木屋の設計監理にあたることになった。
 9月に郵船ビルに事務所を構えるまではスタッフも居なくて、品川区大井滝王寺の仲田定之助の貸家で、ほとんど創宇社の仲間たちで設計した。現・石本建築事務所に、山口の手になる迫力あるコンテの外観パースがある。
 編者が直接山口に聞いた話では、石本から送ってくる小さなスケッチをもとに設計した。立面的には水平線と硝子窓によるモダン建築であるが、入り口正面や内部は金ぴかコマーシャルデザインで、山口は嫌だったが指示のとおりにして、そのかわりに裏側は自分の好きにデザインしたという。裏側の立面には、山口らしいプロポーションの良い構成が、取り壊されるまで残っていた。
 この建築は、1927年9月着工、28年11月第1期が完成した。31年に増築、32年の有名な白木屋火事で改装、57年に坂倉準三設計の大改装で姿が一変した。後に東急百貨店に変わリ、ついに二十世紀とともに消滅した。

 ◆山口文象と白木屋  河東義之
    (「建築家山口文象人と作品・岡村蚊象と創宇社の時代」1982より)

  朝日新聞社の設計に関して,岡村がどの程度の役割を果したかは正確にほわからない.しかし,次の白木星の設計では,彼は主任技師に抜擢されており,石本が岡村の実力を相当高く評価していたことがわかる.
 白木屋の設計は,大阪から送られてきた石本のスケッチを基に,岡村を中心に創字社の同人たちの手で纏められたといわれる.
 部分的にはまだ表現派の影響が残ってはいるものの,朝日新聞社に較べると,はるかに構成主義的,合理主義的傾向を示していた.しかしそれは,岡村や創宇社の影響というよりは,石本の強い意志によるものであっただろう.
 石本は日本インターナショナル建築会の創立会員の1人であった.この白木屋は石本にとって,それまでの表現派凰の建築から,合理主義建築へ転換する第一歩となった作品であった.
 白木屋の第Ⅰ期工事の地鎮祭が行なわれた昭和2年9月16日,正式に「片岡・石本建築事務所」が開設され,岡村はその主任技師となった.名実ともに一人の建築家として,本格的な建築設計に携わることになったのである.それは彼にとって,ようやく「建築」を現実のものとして,実践できる場を得たことを意味していた. 

◆白木屋が消えた   伊達美徳 
  (WEBサイト「週刊まちづくり」掲載 2000年1月)

  昔、東京日本橋のそばに、「白木屋」という有名な百貨店がありました。江戸時代の呉服屋から続いた、三越や松坂屋と張り合った老舗でした。
 先先週の関東の各新聞に、東京・日本橋の東急百貨店だった建物を壊して、跡地にオフィスビルを建てる計画が、完成予定写真つきで出ました。



 その壊されようとしている建物が、白木屋のなれの果てです。戦後高度成長期に新興鉄道資本にのっとられて東急百貨店になりました。 それも去年閉店して、300年以上の歴史を閉じました。
 さて、その建物ですが、東京駅みたいに、だれも、なんにもいわないのは、なぜでしょうか? 実は建築の世界では結構有名なのですが、建築家さえも、言ってないようです。
 そりゃ、東京駅みたいに派手じゃないからだろうって? そうですね、なんだか灰色のコンクリ板がはりつけてある、なんの変哲もない建物です。
 でもね、あの建物ができたのは1928年のこと。そのときは大変な評判のデザインでした。あんな格好がどうしてって? そうじゃないのです、あのコンクリ板は1957年に、全面改装してからの姿なのです。
 戦前の姿は、クラシック様式の三越の向こうを張って、外はインターナショナルデザインとかいって直線とガラスで構成しながらも、入口やら内装は金ぴかタイル貼りのお飾り過剰のアールデコ風やら、まあ、いかにも商業建築らしくあれこれと派手な俗受けするデザインでした。設計は石本喜久治という有名な建築家。
 では、それを何ゆえあんな愛想のないデザインにしたか。そこが建築界の面白いところで、1950年代頃は、あのようなある種の純粋さを求める建築デザインが主流だったのです。今見るとえらく無愛想なデザインを賞賛した時代があったのですね。
 改装デザインをしたのは、これまた有名な建築家・坂倉順三です。けっこう、そのときも評判になりましたが、建築界だけのことで、さすが俗受けはしなかったですね。
 面白いのは、裏通りから見上げると、昔のままの姿が見えることです。でも、えらく無愛想な純粋に柱と壁だけの構成なので、これも戦後の坂倉デザインかと見間違うのですが、実は裏は戦前からの姿なのです。
 これが手抜きじゃなくて、はじめからその意匠なのですが、どうしてそうなのかを語るのも結構面白い建築デザイン史になるのです。これは専門的面白さなので別の機会にします。
 ついでながら、白木屋の百貨店としての歴史もその建物の歴史とともに、数奇な運命をたどっています。例えば、白木屋火事という、日本女性下着史に大きな影響を与えた大惨事がありました。
 白木屋乗っ取り事件も、横井英樹や五島慶太など、時代の怪しげな猛者どもが登場して、新聞沙汰になって面白かったですね。
 さてと、そんな白木屋がなくなってしまうのですが、今の建物を見ても面白くもないので、だれもなにもいわないのだろうと思います。
 でも、あの建物の中に込められた歴史も、東京駅に負けないものがありそうだなあ、なのに、この新築予想図は白木屋の歴史をなんら感じさせないデザインだなあ、このネオクラシックスタイルは三越との競争に負けて三井軍門に下った象徴だなあと、思ったのでした。
 わたしは去年の閉店売り出しのときに、この建物にお別れにいってきました。
  補足:テレビを見ていたらこの日本橋東急跡地開発の絵が出てきた。以前とはなんの関係もない姿の建物らしい。(2001.4.8)

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