1934北鎌倉の茶席:宝庵(旧関口邸茶席)

 1934北鎌倉の茶席:宝庵(旧関口邸茶席)

●建物名称   宝庵(ほうあん) (旧関口邸茶席)

●建設場所 鎌倉市山ノ内1415

●竣工時期 1934年

●公刊資料 

・「関口氏邸の茶席」(『住宅』20巻4号 1935年4月号)

・「吉野窓由来:関口泰」(関口泰著『山湖随筆』1940年 那珂書店)

・「工匠談」(山下元靖著 1969年 相模書房)

・「旧関口邸茶室一畳台目及び数寄屋造り会席」 山口文象
        (『住宅建築 1977年8月号』より 16~33ページ)

・「現代和風建築集第4巻-現代の精華1-」(1984年 講談社)

・『建築家 山口文象 人と作品』(RIA編 相模書房 1982年)


●ウェブサイト

・1934年 北鎌倉の茶席(旧関口邸茶席)<当ウエブページ>
       (建築家山口文象+RIAアーカイブス:制作・伊達美徳)

・「宝庵由来記‐モダニスト建築家山口文象による写し茶室」(伊達美徳)

宝庵 北鎌倉(鎌倉古民家バンク) https://www.houan1934.com/


●図面、写真等

・宝庵平面図、配置図



設計図山口建築事務所制作)



・1935年撮影 「関口氏邸の茶席」
   (『住宅』20巻4号1935年4月号)より引用


・1973年撮影(伊達美徳撮影)


・1975年頃 岡本茂男撮影 (このころの所有者は榛澤敏郎氏)


・2017年12月11日撮影 伊達美徳   (2017年に所有者が浄智寺となる)



左と中の棟は山口文象設計だが、右の増築棟はいつ、だれによるものか分らない

会席の破風に「常安軒」の偏額が架かる

会席(常安軒)

茶室の茅葺屋根の老朽化が著しい。右は山口文象の愛弟子だった小町和義氏

正面は茶室、右は会席(常安軒)

●記 事

・旧関口邸茶席・会席   伊達美徳
    <「建築家山口文象人と作品」1982より>

 昭和51年の冬、山口文象は実に40年ぶりに、北鎌倉にこの茶席を訪れた。戦後に朽ち果てようとしていたこの建物を買い取り復元再生させた建築家榛澤敏郎氏の案内に、懐かしいという言葉を何回も繰り返していた。
 その30歳の若さでの二つの数奇屋ぶりに、随伴するもの皆が驚くのに対し、大工の家に生まれたこと、大阪時代に奈良京都通いの話をして、和風建築への造詣の深さを披露したのだった。この本の執筆者たちがその随伴者であり、あらためて日本の建築家の和風と洋風について考えさせられたことであった。
 吉野太夫一畳台目の写しの茶室はともかくとして、この数寄屋造りの会席は、いわば「数奇屋コレクション」とでもいうディテールの集積が見られ、20歳の頃の茶室行脚の実績を一度の発散していたようだ。
 それにしても理解あるオーナーを得るという僥倖にめぐり合ったとはいえ、洋風の住宅は一軒も残っていないことを考えあわせると、和風建築の寿命は長いことはどうだろう。 

 ●和風のデザイン   佐々木 宏
      <「建築家山口文象人と作品」1982より>

  山口が帰国後にインターナショナル・スタイルの建築デザインを追求していたほぼ同じ時期に,一方で伝統的な和風建築を設計していたことは重要である.鎌倉の関口氏茶席,酒井邸,二見邸,林邸,そして戦前最後の自邸などである.山口は帰国後も日本の伝統的な和風建築に対して否定的な立場をとっていなかったことは明らかである。
 それが吉田五十八や堀口捨己のように欧米からの帰国後に,意識的に母国の伝統を再発見した結果なのか,あるいは若くて無名な建築家が当時の日本の社会で自立してゆくためには,さまぎまな依頼に応じなけれはならないというプロフェッショナルな立場をとっていたからなのかは判然としない。
 しかし,山口の場合は,後者ではなかったかという気がしてならない。山口は,吉田や堀口のように,和風デザインによる建築を自己表現の主流とは考えていなかったからである.しかし,それにもかかわらず,山口は和風建築の設計においても実にすぐれた才能をもっていた。これは,彼の若き日の修業時代に培ったものであった.
 父が大工であり,彼自身小学校を卒業後に大工としての訓練も受け,さらに関西にいた時期に,伝統的な古建築や茶室などについて研究していたので,彼は木造建築のディテールに通暁することができたのである.また建築家としての自己習練の過程で,職人的な意識を越えた観察眼を獲得している。ヨーロッパヘ行って西欧の建築の古典から近代建築の動向をも目撃することによって,建築の本質的な命題について考察する方法を身につけている.
 一般に日本の伝統的な建築の再評価の糸口を与えたのはブルーノ・タウトであるといわれている.たしかにブルーノ・タウトの訪日による日本の伝統的建築の評価は歴史的に重要な意味をもっている。それ以後,和風デザインを試みる建築家は後めたさが消えたといってよいだろう。それは今日にまで及んでいる.国際的に見るならは,きわめて特殊な現象である.
 ブルーノ・タウトの日本滞在中の日記に山口文象の個展を見た記述がある(1934年6月15日).その中でタウトは次のように書いている。

 建築家山口蚊象氏の作品展覧会を観る(同氏はドイツでグロピウスの許にいたことがある).作品のうちでは茶室がいちばんすぐれている.…山口氏はここでまさに純粋の日本人に復ったと言ってよい.その他のものは機能を強調しているにも拘らずいかにも硬い.まる  でコルセットをはめている印象だ.とにかくコルビュジェ模倣は到底永続きするものではない.(篠田英雄訳)

 展覧会は資生堂ギャラリーで開かれ,展示作品の主なものは,歯科医専,八雲記念館,八雲図書館,アパート案,菊地アトリエ,協同組合学校,関口茶席,アトリエ,モデルルームなどである.生前,山口にこのことを訊ねたところ,日本歯科医専を中心にして当時の仕事を並べたのだということで,詳しくは列挙しなかった.ともあれ,洋行帰りの山口としては最初の個展だったようである.
 建築家が個展を開くというのは,はたして当時として一般に慣習化されていたとは思われない.山口の自己顕示が強烈に発揮された個展だったにちがいない.したがって来日中のタウトをも招待したのだろう.タウトは山口に面と向って,どのような批評をしたかは知らない.しかし,タウトは日記の中では,山口の狙っていた評価とは異なって茶室の方を高く評価している.おそらくこの茶室というのは,北鎌倉に現存する旧関口氏のための茶室であろう.
 ちなみにタウトの日記の中では他に山口に関する記述は,どういうわけか岳父の前田青邨との関係のものが多いのも興味深い.タウトが来日中に,山口は青邨の令嬢と婚約し,やがて結婚し,彼はタウトを青邨邸へ案内して引き合せ,帰国に際してタウトは青邨から色紙を贈られたようである.タウトの日記を読む限りでは,グロピウスに学び,高名な画家の令嬢と結婚したということで,山口を特別視していたようにも感じられる.また,石本の妨害についても山口より聞かされて非難めいた記述が残されている.
 タウトは山口の和風建築のデザインの力量を見ぬいていたし,山口自身も内心では,和風建築は自家薬寵中のものであって,吉田五十入や堀口捨己よりも巧みだと考えていた形跡はある.しかし,彼はあくまで,それは新しい建築の本道でほないと考えていた.名手となろうとすれば,なれるだけの能力をもっていた.しかし,ヨーロッパの近代精神の一端に触れて,過去との断絶を使命感としていた山口にとっては,和風デザインはあくまでも,身すぎ世すぎの便法であり,とくに数寄屋凰建築は彼のイデオロギー的立場と対立するものであると感じていた.

・山下さん  山口文象
  <『工匠談』(山下元靖(旧名留蔵)著 相模書房、1969年刊より(5~6ページ)

 山下さんとはもう四十年の永いおつきあいになりましょう。北鎌倉の数棟の茶席 は私の若い時代のなつかしい作品です。私の父が宮大工で後ちに茶席風の住宅などを作っていましたので、一生県命に近代建築の運動と実際の仕事をしていた当時とは云え、私の血肉の中に伝統的な日本建築への郷愁があったのかも知れません。関口先生から設計を依頼され情熱を傾けて仕事に当りました。三十に未だ手のとどかない青二才の頃です。山下さんも未だ青二才。しかし二人は意気が合い、毎日浄智寺の現場で夏は真黒になり、冬は鼻みずをすすり、けんかをしながら楽しんで仕事に没頭したものでした。
 山下さんの様な大工さんはもうほんとうに数少なくなりました。仕口に応じて自分で道具を創り、問題点が生じるとこれに対応する技術を発明する。この人の永年の今日もそうでしょうが毎日、毎時が、創作の連統であり、努力の生活です。ほんとうの意味のアルチザンと云うのでしょう。一人の大工が如何にして完成されたか、そして人間としての真の職人はどの様な苦難の末に出来上がるものなのか、この山下さんの本が教えてくれるでしょう。後に続く人達の多くにこの本から沢山の栄養を汲みとってもらいたいと思います。


・北鎌倉の茶室 旧関口邸茶室一畳台目及び数寄屋造り会席 山口文象
    <『住宅建築 1977年8月号』より 16~33ページ)


山口先生に数寄屋の作品がおありになったこと、こんどはじめて知り、大変興 味深く拝見させていただきましたが、どんないきさつから、この作品が生まれたのか、その辺の事情などから伺わせて下さいませんか。

 それは、わたしが美術史やドイツ語などをおそわった矢代幸雄先生が関係しているんです。 先生の交友グループには錚々たる人物がおりまして、美術史の児島喜久雄先生とか、朝日新聞のヨーロッパ特派員として鳴らした黒田礼二先生とか、そしてこの茶室のクライアントとしてわたしのまえに現われることになる関口泰先生とかね。矢代先生の紹介でわたしもそのグループの人びととの付き合いがひろがっていきました。関口先生は朝日新聞の論説委員として活躍されていましたが、大変な碩学で茶もたしなみ、奥さまもその道のオーソリティでした。

 ご自分の住まいを建てるということで、鎌倉のあそこの土地、見てくれというわけでわたし行きました。そして建てることになったんですが、茶席もつくりたいというわけですね。「文ちゃんどうだい、茶席もできるかいな」、「いやあ、やってますよ、まっ白い建物ばかしじゃなくて日本建築もやってます、茶席できます」「そう、じゃひとつ頼もうかなあ」というわけ、それで作ることになったんです。

 関口先生の茶は流派には関係がなく、セレモニイをもっていたわけでもない、本当の意味の茶をたしなんでいるんだということでしたから、わたしもまた非常に自由に考えてよかったんです。ところで、土地にまだ余裕があるから茶席をもうひとつ、ふたつぐらいあってもいいというわけね。いま京都にあるものでコピーして移植していいものはないかなあ、という話がもちあがりました。ここでわたしが21、2の頃やったことが役に立ちました。

 逓信省の仕事で大阪に行ってた頃、奈良と新薬師から大阪に通っていたのですが、伊東忠太先生のお話もあって日本建築史を書こうと思っていましたから、奈良や京都の寺など実測したり、写真とったり、図書館に通ったりしていましたが、茶席の調べにも凝りだして平面の実測とあのジャバラの写真機かついで写真をとりまくりましたね。役所へは半分行くか行かないかでね。どう時間を繰り合せたんですかね。その写真がね、400枚くらいあるんです。それを整理してヨーロッパに行ったときベルリン大学の図書館の部屋を借りて展覧会をひらいたんです。グロピウスが見てびっくりしたらしい。恐らくグロピウスが日本建築を見たのは、その時がはじめてだったんじゃないかなと思います。

 そんなわけで京都の茶席をぐるぐる見てまわった頃に、撮影した茶室があった、それが八坂神社のそばにある高台寺の吉野太夫の茶席、遺芳庵なんです。
 これがすばらしいデザインなんです。屋根のヴォリュームの大きさ、それら全体のプロポーションが実にすばらしい、その話を関口先生にしたら「じゃあ見に行こう」というわけで見に行きました。そこで決まったわけです。しかしわたしのスケッチはプランだけでしたから、移植となれば構造からディテールまで詳細正確に実測しなければならない。やりました。それが北鎌倉のあの丸窓の一畳台目の茶席なんです。

そうしますと、あの丸窓の茶席はその遺芳庵のほぼ忠実なものですね。

 ほぼじゃあないんです。全然同じものです。ディテールまで完全なコピーなんです。ただし左右逆になっています。それは敷地の条件に合わせて、逆にしなければなりませんでした。鏡に映った左前のコピーというわけですよ。

もうひとつの数寄屋造りの会席とこの丸窓の茶席の仕事の時期はどれくらいずれがあったんですか。

 同じ時期の仕事なんです。丸窓の位置がなかなか決まらなくて会席の方もずっと後れまして……大体同じ頃できあがったと思ってます。
 丸窓のほうの屋根に瓶がのっかっていますが、いまのやつはわたしがのせたのとはちがうんです。もっと大きかった。あれはいまあの茶席の足元にころがっている摺り鉢なんです。プロポーションからいって、いまのは小さい。
 しかし考えてみると、当時はずいぶんと細かい仕事をしましたね。瓦の寸法なんかも全部普通の寸法とちがう。あの数寄屋建築の瓦ですよ。あれは全部特別に焼いたものなんです。大きさとか全体のプロポーションからいって、普通の瓦ではない。プロポーションから瓦一枚一枚の寸法を出しました。
 こんなバカなこと、当時のわたしの建築思想からは考えられないのですがね。わたしはこういう特殊な仕事は建築家の仕事じゃない、建築家は一般の人々の住む建築をつくるべきだと考えていましたからね。どういうわけだったんだろうね。

大きな丸窓の方は完全なコピーということでしたが、数寄屋造りの方はどうですか。これは先生が前々から温めていたアイデアを表現したと言ってよい創作なんでしょうか。

 谷口吉郎や吉田五十八の茶席なんか、わたしは茶席だと思っていませんね。あれは学問的に、非常に厳しい割り出し方からきていて、それが基礎になって先生の茶席になっている。
 わたしのはそれとはちがう。わたしの親父が大工で、茶席も手がけていましたから、親父の後をついて歩いたりして、ごく自然に感覚的というか触覚的というか、身体で覚えたところがあったと思いますね。とくにプロポーションね。ぼくのは、だから感覚から入って行った茶席だと言えるでしょうね。
 数寄屋造りの方はね、これは創作でね、あまりマネはないはずですね。

しみじみと眺めまわすと、天井に杉皮の角網代組あり、杉の変木材の亀甲勾配網代組あり、大変に材料の選択にご苦労されたのではとおもわれるところがあるのですが……。

 いや、別に苦労などしてないのですね。 すでに言ったようにまったく感覚的にできた茶室なんですね。

四畳の茶席の床の間のスミが丸く塗りまわしてあって、じかに地板になってますが、框つけずに。なにか特別の意図、ねらいがあったんでしょうか。床柱も地板から立ち上がっている。

 そう、あれはねえ、床柱のほかにタテの線がほしくなかったということとね、美しさの問題ですね。 地板の方も、框のいいのかなかったから、そして地板のいいのがあったから、ということね。
 床柱が地板から立ち上がる、これもいわゆる教科書と違うところで、パースを描いて、空間を想像してみて、線が多すぎるとできるだけ線を消してゆく。これは茶席に限らず、現代建築でも、造型的に見て、できるだけ、装ったものをなくす、いらないものをとってゆく、それがデザインだと考えていますからね。 近頃の若い建築家がやっていること、どうもいらないものが多すぎると思いませんか。造型というものは、いらないものを全部とってゆくことだ、茶席の精神も、ねらいもそうだと思いますね。

床柱はどういう木ですか。 ちょっと赤茶けた質のものですが……。

 あれは赤松です。本所の高橋(タカバシ)の近所のある銘木屋でみつけた柱で、赤松の皮付きなんですが、普通のとちょっと違うのですね。普通は、皮が浮いててブカブカしている。それは気にいらなかった。 あの色で、あのテクスチュアで、もう少しピチッとした固い感じのものをさがしたんです。
 あの場所にはあれでなければ、部屋の雰囲気とプロポーションからどうしてもね。でも、むくと皮が出てきます。ですから、大工には、細工するとき皮がでないように気をつけさしたんです。後でこすってもいけない。あれはいい柱です、珍らしいです。

この北鎌倉の作品のほかにも、数寄屋の作品はあるのですか。

 高井戸にあったんですよ。何年か前にこわしたらしいですがね。その一部が残っています。さきほども話したように矢代幸雄先生の交友グループのなかに、荏原製作所の会長もつとめられた酒井億尋さんもおられまして、そんな関係から非常に親しいお付き合いがありまして、ちょうど北鎌倉と同じ時期だったと思いますよ。茶席などもあった120坪もある大きな日本建築の住宅をこわして、お嬢さん2人の家族と自分たちが住む家を3軒ばかり新しくつくりかえた。わたしがはじめ長女の家をやったのですが、身体を悪くしたものだから、あとの二軒は三輪正弘君のデザインで建ちました。その酒井邸に、わたしがやった茶席の一部と門が残っています。

 この仕事をした大工は、私の兄貴でして、じつにすばらしい技術をもっていました。 兄貴の削った板はツヤがちがうんですよ。それに、どんなむずかしい石の上でも柱をピタッと立てる、はやくて、うまいんだなあ。今、高井戸に残っているものは全部兄貴の工作です。ぜひ見て下さい。
 兄貴は、わたしの5つ年上でしたから、生きていれば80才になるのですが、わたしは小学校の頃からこの兄貴にいろいろと鍛えられました。字も上手、絵も上手、音楽も好きで本人は建築家になろうとしていたのですが、親父のあと継いで大工にさせられたんです。神田にあった中央工学校の夜学に通っていて、建築家に強い憧れをもっていました。
 この兄貴の影響は非常に大きかった。当時わたしは別に建築家になろうとは思っていませんでしたが、建築についての、あるいは芸術についての感激的な話を聞いていたし、また親父も大工だったわけだし、いつの間にか建築、建築ということになったんでしょうね。兄貴にはよく帝劇などの音楽会につれてゆかれました。

お兄さんの工作になった作品ぜひ近いうちに拝見させていただきたいと思います。40年もの風雪に耐えて北鎌倉に生き続けてきた知られざる山口先生の作品に触れて、日本の風土と建築について、また現代建築の進むべき遂について、いろいろな想いが浮かんできます。

 いや、わたしも40年ぶりに昔の作品に再会して感慨深いものがあります。これも取壊し寸前に、鎌倉に住む建築家の榛沢敏郎さんが買い取り、修理保存してくれた賜で、大変感激しております。天井板は洗って張り直し、壁も元通り京壁で仕上げるなど、榛沢さんは非常に忠実に修理されており、新築当時そのままの姿になっていました。こんなに丁寧な保存を受けることは、いまどき珍らしいことで、希有の幸せというものです。 (文責:編集部)  

編集部付記:この北鎌倉の旧関口邸茶室については、この工作に携わった故山下元靖(旧名留蔵)氏の著書『工匠談』(相模書房、昭和44年刊)のなかにも触れられており、工事は昭和8年から昭和10年にかけての約2年間であったことが記してある。

 引用者(伊達美徳)注:このあとに19~33ページにわたって岡本茂男撮影の写真掲載あり


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