1926年 朝日新聞社屋
●石本喜久治氏との出会いのころ 語るひと:山口文象
(『石本建築事務所創立70年の歩み』1998石本建築事務所より引用)
私が19歳で名古屋の清水組の現場にいた大正9年(1920)に、ご承知のように分離派建築合の展覧会が始められたわけです。
そのメンバーのひとりの山田守氏の論文を雑誌『建築世界』で読み、感想と質問を出したところ返事がこない。
自分でデザインをやりたくてついに辞職して上京……大正9、10年ていうのは大不況でしてね、雇い主がいないんです。
曾禰中条建築設計事務所の中条精一郎先生の紹介で逓信省に図工で入ったわけです。
辞令をもらって挨拶まわりをしていると、そこに新進建築家としで山田守氏がいたもんだから、まあ若気のいたりで文句をいってね。その山田守氏を通じて分離派の寄合いに出るようになりまして‥‥‥、石本先生と知りあうようになったわけです。
そうやっているうちに、関東大震災がありましてね。
内務省から山田氏へ復興局、東京復興局っていいますか、そこへいって東京市内の橋を設計してくれないか、という依頼がありまして、彼が兼任で始めたところが、メモをみるっていうと東京市、横浜市で何百っていう橋があるわけですよ。
びっくりした彼の頭に私のことが浮んで、復興局の橋梁課へいかないか、という話になったんです。
それで、たくさんの橋をてがけましてねえ。数寄屋橋を設計しているとき、その橋の畔の朝日新聞社を竹中工務店の設計部で石本喜久治氏がデザインし、構造はだれ、ということで、みんな分担してやっていましてね。
分離派の会で親しくしていた石本先年から橋の方も大分進んだようだし、丁度数寄屋橋もやっているんだから、朝日新聞社の設計をやりに来ないか、と誘われて竹中の設計部に入ったんです。
石本先生の設計を手伝っているうちに、1部の階段とか、社長室、部長室とかのインテリアをまかされ、外部の手の回わらない所なんかもやりました。
正面入口の楯なども私がデザインして石で彫ってね、それで貼りつけたんです。その模型なんかは、分離派建築会の作品集にのっています。
あそこの講堂のドンチョウなんかはネ、アブストラクトの、あの時代としては非常に新しいデザインです。
当時、石本先生は燃えてましてね。
日本で初めてメンデルゾーンみたいな新しい建築をおれがやったんだ、という自負ですね
とにかく、こんな具合に石本先生と私との関係ができて、朝日新聞社の社屋ができあがりかけているとき白木屋の話がおきたんです。
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