1934日本歯科医学専門学校

 1934日本歯科医学専門学校

・建物名称  日本歯科医学専門学校付属病院(現存しない)

・建設場所 東京・新宿区

・竣工時期 1934年


●日本歯科大学 左:1977年伊達撮影  右:設計当時のアクソメ図(RIA所蔵)



・記事・論評・解説

●1932年日本歯科医専の設計を開始   伊達美徳
     (「新編山口文象人と作品」2003年より) 

 1932年7月末にヨーロッパ遊学から帰国後直ぐに、日本歯科医学専門学校の中原市五郎校長の長男である中原実が、その附属医院の設計を山口に依頼した(着工は10月、竣工は34年7月)。これが山口の出世作となる。この仕事について、山口栄一の回想話の記録がある。(「歴史の会の記録」1972年2月17日(「竹村文庫たより」6号、7号))

「石本、仲田定之助、中原実、この3人は親友なんだよ。そいでね、中原さんの歯科医専ね、あれは当然石本さんがやるわけだったんだよ。中原さんもそのつもりでいるし、仲田定之助(編者注:石本の言い間違いか)もそのつもりでいたところがね、仲田定之助ががんばっちゃったんだ。山口文象がもうすぐベルリンから帰ってくるから、(山口にさせるようにそれまで)日本歯科医専の設計待って、となっちゃった。あれが不思議だったなあ」

 事情はどうあったにせよ山口が仕事を横取りしたと、石本喜久治は腹を立てたにちがいない。石本は、山口は社会主義者だが自分は無関係である旨の文書を関係先に配布し、当時大倉土木にいた山口栄一は、上司からそれを見せられたという。建築許可担当の警視庁からもいろいろな難癖をつけられたが、それも石本の工作だったろうと山口栄一や河裾逸美が語っていた。

 山口の帰国後すぐに河裾はよばれて、日本歯科医学専門学校設計のために東京・麹町区富士見町の有島生馬の貸家を事務所として、二人で図面をひきはじめ、竹村や海老原一郎など創宇社同人たちが手伝った。職工徒弟学校の同級生だった田中正蔵(後に横河工務所)が構造設計を担当した。
 学校の後継者である前衛美術家の中原実は、山口を使って自身の創作意欲を発揮した。当時中原が書いている。(国際建築」1936年11月号)

「『文化は常にその真の文化的方向にのみ進むものである』 何もかにも旧い仕事を山口氏はやったに過ぎないけれども、この旧ささえ今日の我々の社会では実に精いっばいであった。希望の五割も出し得たかどうか。我々はがむしゃらに突進してみた。平均三度以上一カ所に変更を行なった。既製品は全部作りかえ、他にある物は、何一つ採用しない主義でやった。それでもなお、どこかから旧さがソットしのびこんでしまった。それを、私は今日の文化の罪にかぶせるのではない、やはり私の力の足りなさであったのだと信じている。

だがしかし、このつぎこそはと決心している。あるいは山口氏への私の親切は分に過ぎていた点があったかも知れない。かえって専門家諸氏に回り道をさせていた時もあったと考える。建築家は誰も同様に半ばな工事をさせられている。ウッカリ、素人の建築への批評のようなものは迷惑でもあろう。生活のためには芸術家もいつの間にかモットモらしい紳士になりさがってしまう。そうして紳士の作法に従って大建築を設計する、その設計は即ち金より他の何物でもなくなる。要するに商売なのだ。それでも私のところの山口氏の建築などは、そういう意味の真に少なかった方ではないかと思う。

日歯のデンタルホスピタルについては私は素人ではないから明瞭に申しあげるが、山口氏の建てた日歯のホスピタルこそ、その機能的見地から世界最高のものであるというだけは、どなたにも何の躊躇するところなくいうことができる」

 その後この建物は、戦災や機能更新のため何度も改造され使われてきたが、病院移転により使命を終え、1988年に取り壊された。

 

●日本歯科医専・付属病院       伊達美徳
  (「建築家山口文象 人と作品」RIA編 1982年 相模書房より引用)

  山口文象の出世作として位置づけられる作品である。ヨーロッパから帰ったとたんにこの設計に携わるという実にラッキーな帰朝第1歩であった。オーナーの跡取り息子であり、前衛画家であった中原実は、その自身の創作意欲を山口文象の手を借りて建てたようだ。前衛美術としては中原氏はまだ不足だったようだが、建築としては時代の先鋭となったことは確かである。それはまさに「ヨーロッパモダン・コレクション」であった。
 この1作で山口文象の建築界での位置は決まったため、和風の手練としての腕前のほうは裏看板となった。しかしこの後この「国際建築様式」の表看板を生かす大きな建築は黒部だけであったのは皮肉である。
 戦後、RIAになってからこの建物の増築が計画されたことがある。この建物と直角をなす形で、シャープな構造を表現した立面は、山口文象の二つの時代の表現を同一の場面で見るチャンスだったが、事情により他の設計者に代わって現在の形となっている。いま、入り口のキャノピーのあたりに当初のデザインを見ることができるのみである。


●国際建築の推進    
佐々木 宏 
   (「建築家山口文象 人と作品」RIA編 1982年 相模書房より引用)

 洋行帰りの若い建築家山口文象は周囲の多くの期待を担って楓爽として独立した道を歩むことになった。彼のデザインの力量は、分離派や創宇社のグループ展における計画案や、彼が担当した石本事務所での作品によって、すでに一部の人びとによって高く評価されていた。大学や高等工業学校の出身の学歴エリートではないが、日本の新しい建築デザインの担い手の一人になるだろうと注目されていたのである。その山口が世界的に著名なグロピウスの直弟子として帰国したのであるから、彼に対して寄せられた期待はかなり大きなものであった。したがって帰国後に次々と設計依頼の仕事に恵まれた。洋行前から洋行中にかけて、彼の交友関係はいちじるしく広がり、芸術家、学者、ジャーナリストなどのいわゆる文化人たちの知己が多くなったことは、彼のその後の創作活動において重要な関係を構成している。

 山口がその期待を裏切らずに大きな成果をあげ広く注目を浴びて高い評価を受けた最初の作品は、東京・九段に建った日本歯科医学専門学校(現・日本歯科大学)である。この学校は、洋行前からの芸術家グループの友人の中原実の父が創設したもので、歯科医学者で画家でもあった中原が新しい校舎の設計者として山口に白羽の矢を立てたのであった。山口は依頼者といい課題といい、自分の能力を発揮するには絶好の機会に恵まれた。

 厳しい条件としては,周囲が建て混んでいる市街地の中という敷地の問題があった。しかし,彼はその限定された条件を新しい手法によってただたんに克服するばかりでなく、さまざまな画期的デザインを生み出したのである。この作品によって新進建築家として山口文象は第一線に躍り出たといってよいだろう。

 今日の時点から見れば、この作品は師の提唱した国際建築の路線をゆくデザインである。このデザインの路線は細部の手法においては、いくらか個性的なものを識別することはできるが、全体としては没個性的なのデザインや、アプローチと入口とのつけ方で変化させているのは実に巧妙である。外装の白いタイルやスチール・サッシのディテールにもユニークな手法が用いられている。

 内部の空間構成は外部以上に創意に満ちあふれているといえるだろう。ギャラリーをもつ二層構成の講義室は,いわば劇場などではすでに見られる方法であるが、講義室に採用したというのは実に卓見であったといえよう。従来の階段教室と異なって、二つのゾーンに学生の席が分割されているのである。そしてその机と椅子まで曲線的にデザインされている。山口はその修業時代において表現主義的デザインにも深く関心をもっていたので、曲線を用いるデザインにかなり愛着があったのではなかろうか。この講義室の机と椅子の群造型は、表現主義デザインの再現ではないかと思わせるほど興味深いものである。

 特筆すべきは手術室の空間構成である。学生が手術を見学できるように連続窓のあるギャラリーを配したこの立体的な構成は、当時としてはまったく新しい方法であり、大きく注目された。このような手術室はいまではかならずしも珍しくはないが、山口の発明ともいえるこの手術室の構成は、欧米でもかなり高く評価されたのである。

 日本歯科医専の建築について特に記しておきたいことは、そのデザインが日本で広く有名になっただけでなく、当時外国の雑誌にも掲載され、第二次大戦後の発行ではあるが、イタリアの建築家サルトリスによる2冊の著作の中に収録されている点である。一つは1954年刊の『新建築の百科事典』の第3冊目で、7頁にわたって11葉の鮮明な写真が載っており、日本の建築では他に、土浦亀城の山本邸、レーモンドの赤星邸、東京市役所設計の筑土小学校、本郷小学校、四谷小学校だけである。

 もう1冊は1949年刊の『近代建築入門』であり、これはもとの資料は同じであろうと思われるが、偶然にも見開きでグロピウスのバウハウスと、山口の日本歯科医専が並んでいる箇所があって、いまとなれば、なぜか奇妙な暗合を感じさせる。果してサルトリスはグロピウスと山口の師弟関係を知っていたのであろうか。サルトリスは建築家であって建築史家ではない。したがって、彼の本の中でとくに日本歯科医専を大きく扱っている点については、日本の近代建築史に関しては異論も起るだろう。

 しかし、日本の建築ジャーナリズムの中から、欧米の建築家の眼でインターナショナル・スタイルの成果として注目すべきものを選び出したものの中で、山口の作品が重要な位置を占めているという事実は非常に興味深い。レーモンドと土浦はともにライトの作風から脱皮してインターナショナル・スタイルへ向った建築家であり、東京市役所にはブルーノとマックスのタウト兄弟に師事したことのある古茂田甲午郎と小野二郎がいたし、そして山口はグロピウス門下であったことから考えると、欧米の建築家の眼に叶うだけの本格的なデザインに到達していたという例証であったと考えられるのである(ちなみにサルトリスの中ではDunzo Yamaguchiと誤記されている)。

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