1954聶耳の碑

 1954 聶耳の碑

・名称 聶耳の碑  

・場所 藤沢市聶耳記念広場(引地川左岸河口部)

・時期 1954年10月(1965年再建立)

・掲載誌  新建築1955年4月号

・画像

1954年


1965年?

2012年






 設計者のことば   山口文象 (新建築1955年4月号)   

 この碑の設計を依頼された時、私は感動しました。30年ほど前、ある研究会で中国の近代音楽が話題にのぼり,若い革命的作曲家として聶耳氏のことも多く語られていたことを想いだしたからです。私は彼の終焉の地に,しかも今日の世界情勢の中にこの碑を建てられるということに、なにか表徴的な意味深いものを感じとりました。
 この海岸に候補地が二三あげられましたが私はここに決めました。前面が大きく展らけて水平線に小さく葉山あたりがのっており、左に江の鳥,西南の隅に遠く富士が見えます。おそらく故人も小さい乍ら変化のあるパースペクチヴが繊りなす優しい風景に心を曳かれていたのではないかと思うのです。
 私は今までの定型化された碑の概念を捨てようとしました。視点の移動に従ってマッスの組み立てと,線や影のコンポジションが一つのテーマに従って動的な空問を構成する、ということを意図し、造形しました。私の意識の奥底に聶耳氏の中共国家の力強いメロディーが流れていて私のアイディアをさそい出したのかもしれません。
 半円形の江の島、ホリゾンタルな水平線と三角形の富士、この幾何学的な背景を堅い構成の物体で直接しぼることは、その対比が余りに強すぎ、印象も裸になりすぎます。そして色の重なりからしても背景との中間にやわらかいヴェルをかけたいと思いました。サルスベリの特異な枝ぶりは群植することにょって思わぬエフェクトを創り出してくれました。故人の命日の7がつ17日頃には小さな真白い花をいっぱい咲かせることでしょう。
 この建碑に当って主催者の藤沢市の人々の努力は勿論ですが、施工された日本美術社の小原銀之助氏や高田雨郎氏の昼夜を通しての精励を忘れることは出来ません。(山口文象)(雑誌「新建築」1955年4月号 57ページ)


聶耳(ニエ・アル)の碑の今昔   伊達 美徳

 藤沢から平塚にかけての海岸は湘南海岸といわれ、その海岸沿いには幅広で長大な防砂林が設けられている。砂丘の上に松林を主としながらも常緑広葉樹との混交林であるところが特徴的である。震災復興で、「森の長城」を提唱している植生学者の宮脇昭先生の指導でつくった森である。
 よくある白砂青松の疎林の松林ではないのは、砂が飛ぶのを防ぐ目的だからだ。同時に、津波が来たら密な植生はその水の勢いを幾分かはそぐだろうとも思う。

 その樹林帯が東の端で切れるのが、藤沢市の引地川の河口部であり、その海岸の向かいに江の島が見えるところである。
 この河口部にある公園の中に「聶耳記念広場」がある。真ん中に四角な1m角ほど、高さ60センチばかりの石のモニュメントがあり、周りを低い塀と生垣が取り囲む。
 モニュメントは陸側から海側にむかって眺めるように配置され、その背景の一部に2m角ほどの壁がたっていて、若い男の顔のレリーフがはめ込まれている。
 その男の名は聶耳(ニエ・アル 1912~35)、中国の音楽家であり、日本に来ていた1935年にこの海で泳いでいて溺死した。まだ23歳であった。
 若くして異郷で死んだにもかかわらず、聶耳は現在の中国国家となっている「義勇軍行進曲」の作曲者として有名な人であるらしい。その故郷の昆明には、彼の名をつけた公園があるという。
 義勇軍行進曲が1949年に中華人民共和国の国歌となったのを記念して、藤沢市民の有志からその海で死んだ聶耳を記念する事業を行おうとする運動が起こり、1954年に碑を建てたのであった。
 まだ日本と中国とは国交が開いていない時代だったが、除幕式には中国からの要人も出席した。その後も今日まで中国の要人がくるという。
 その碑の設計者が、建築家の山口文象であった。
 雑誌「新建築」1955年4月号に山口文象が設計者としての言葉を書いているのを読んでみても、聶耳ととくに親交があったようでもない。何が故に山口文象がデザインすることになったのかはわからないが、社会党系の文化人に知り合いが多かったことから、その方面からの紹介だったのかもしれない。
 1958年に関東を襲った狩野川台風による高波で碑は流されて荒廃していたが、1965年に再建された。この時に山口文象が関わったかどうかわからない。 さらに1986年に再整備がされているが、この時は山口文象は他界しているから関係はなさそうだ。RIAも関係していないことは、わたしが知っている。1954年の山口文象のデザインの範囲は、碑、秋田雨燕による碑文、敷石とその周りの砂利敷きを縁取る石までであるようだ。
 サルスベリの木のことを「思わぬエフェクトを創り出してくれました」(設計者のことば「新建築1955.4」)と山口は書いているので、周りの造園は彼の設計ではないだろう。
 碑のデザインは、ムクの稲田石を四角に切って、耳の字をモチーフの切り込みと突起をつけている。謎解きのようで面白いが、こういう類の記念碑がほかにあるだろうか。
 このころ記念碑デザインの第1人者は、建築家谷口吉郎であった。山口文象と谷口は親交があったが、こういうもののデザインについては、山口のほうが谷口を意識していたであろう。それが「私は今までの定型化された碑の概念を捨てようとしました」(設計者のことば「新建築1955.4」)となっているのだろうが、果たして谷口の向こうを張るほどのもののなったと言えるだろうか。
 新建築1955年4月号に載っている写真や配置図と比べると、現在はずいぶんと変わっている。ネットに登場する写真で見ると、何回も配置も造園もデザインが変わっているようである。しかし、碑そのものは作り直されることもなく変わらずに中心にある。秋田雨雀による碑文は、1954年の当初には碑の前に浮くようにあったが、いまは周囲の壁にはめ込まれている。なお、この碑分は、一部に誤りがあったので1986年に井上靖が手を入れて訂正して作り直したという(「聶耳歿後60周年記念講演」葉山俊1995年)。新たな記念物として、碑の背後に聶耳のレリーフ(作:菅沼五郎)がはめ込まれた壁が建っている。これは1986年の整備の時に設けられたとある。この再整備の時に、元は引地川の西にあった碑を、東側に移動した。
 わたしは2012年の11月30日に初めて現地を訪れた。実をいうと、宮脇昭先生のの「森の長城」を調べようと湘南海岸の砂防林を見に行っていて、偶然に出くわしたのであった。引地川河口部の見晴らしの良い公園の中にあって、明るい雰囲気である。気になったのは、いろいろな碑文やら解説版やら標識やらが建っていることである。再整備の時や何かの記念行事の時に増えていくらしいが、環境デザインとしては煩瑣になってきている。
 ところで、、昨今話題となっている東南海大地震による津波のことを考えると、引地川は津波の遡上のルートとなるだろう。ここには防波堤も防潮林もないから、津波に一番に持って行かれるだろう。この碑だけではなくて、海に裸で向かっている無防備なこのあたりの市街地全部がそうなるだろう。もう一つの大波も気になる。このところ尖閣列島事件以来、日本と中国の関係が不安定である。
 この碑が国交のない時代から日中友好の役割を持っていたことを、いま思い出す人がいるのだろうか。(2012.12.02)

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