1953~60年 RIA初期の建売住宅設計
●RIAの建売住宅 近藤正一
(『疾風に如く駆け抜けたRIAの住宅づくり』2013 彰国社 69ページ)
建売住宅=商品住宅ということでは、その最初はローコストハウスである。それからRIAは時代とともに、いくつかの建売住宅の設計に関わっている。
一九五三年(昭和二十八年)のK建設の3Kハウス12戸(土地を含んだ建設費八〇万―百四〇万、坪あたり三万五千円前後)の設計協力。続いて大和住宅生活協同組合の大和住宅二〇戸(土地を含んだ建設費四〇万―六〇万、坪あたり三万一千円程度、都融資分譲住宅、p185参照)の設計では、次の三点を設計要旨とした。
①思い切った立式生活への移行
②内部の壁体を二〇戸の集団建設に適当な現場流れ作業により工業化を図る
②居住性の重点に工費を区分し、厨房は入居者が直ちに使用可能、浴室は各戸の条件で配置、板間には畳ベッドを装備する。
一九五六年いち早く住宅地の不動産開発を手掛けた近畿日本鉄道開発局(現近鉄不動産)が朝日新聞社のフェアとともに、「楽しい生活と住宅博覧会」を近鉄奈良線の学園前と菖蒲池で開催。
それに際して、当時としてはまったく高級なコンクリートによる個人住宅群をつくろうと考えた。しかもそのプランは一般に公募し、その審査員として、住宅作家として著名な、池辺陽(東大教授)と山口文象(RIA代表)を選び、その上でさらにこの二名にモデルハウスをつくらせた。当時RIAがはまっていたシリンドリカルシェル構造のゾーンプランの家であった。p193参照)
それに続いて一九六〇年(昭和三十五年)、同じく近鉄の五十周年記念事業があり、前回の博覧会での好評を受けて、今度は、同じ地域の登美が丘で「モダンハウジングフェア」と名もモダンに十五名の関西在住の建築家に、木造、コンクリート造、それぞれ一軒ずつ、計三〇戸のモデルハウスを設計、実施することにした。これほど大々的な有名建築家による建売モデルハウスは、これ以外いまだに見当たらない。
増田太郎(R-A)、渡辺節、徳永正三、橋本文郎、宇賀一郎、中西六郎、河合寛弘、清水和弥、東畑謙三、村野藤吾、池田宮彦、圓堂政嘉、伊藤鉱一、小河吉之助、富家宏泰、西澤文隆が、これに参加している。RIIAはλハウス(p76参照)と二つのコートを持つコンクリートの家を提供した。(p20参照)
●住宅問題との接触 三輪正弘
(『建築文化』1955年9月号)
建築家という職能は,井護士や医者と並んで,主体性のまことにハッキリした立場をもっているハズなのだが,不幸にも遅れて出発した日本の社会のなかではオポチュニスト=建築家という現象がおこりがちだ。つまり,建築家に於ける確固たる政治思想というものはどうやらノンセンスに近いということだ。彼はしかし,しばしば単純な理想主義者になり得るから,例えば住宅問題にぶっかって社会主義のイデオロギーを説く。ところが堅固に根を張っていないイデオロギーは観念の空疎な展開におわって,決して建築の問題としてつかむことが出来ない。だから僕は,こういう悪循環による致命的な空転を計算に入れた上で住宅――住宅問題――住宅政策,という不連続線を観測して行かねばならないと思うのだ。
英国のように,政治的に洗練された社会では,上のような不連続なギャップはないから,住宅政策と住宅設計のつながりはずっと緊密だ。例えば社会党の提示する住宅計画を,保守党がそのままのスケジュールで実施するという具合に割切れている。こうなると政治と住宅などとことさら大げさな悲鳴を建築家があげる必要はないし,個人住宅と集合庄宅の日本に於けるような断層は,はしめから大して問題にならないのだ。ただどういうものをどれだけっくって行くかという,具体的な問題にすぐに取組んで行ける。
我々はこういう問題へのアプローチをずっと離れた地点から開始して行かねばならない。それは建築家にとって根本的,だがよりプリミティーヴな地点だ。RIAの仕事をとおして僕が感しているのは次のようなことであった。……住宅の設計を追求して行くことはあらゆる広範な建築設計の分野のなかで,最も人間に密接しているという理由で,建築家の仕事として重要である。――大規模の公共建築や商業建築にあっては組織のつくりだすシステムの中に,或は構造学や設備工学のなかに,つまり技術の蔭に,人間(勿論建築家自身を含めて)がかくれてしまうということが当然考えられる。――近代建築のメカニズムに対してヒューマンなものを取戻そうとする模索は,人間と建築の離反をどこまで修正し得るだろうか。だが,住宅建築のみがヒューマンな制作だというのではない。
ただハッキリしていることは,施主←→設計者の人間的な関係が最も端的にしかも厳密にあらわれるものが住宅設計の一面の特性であること,一方土地の問題から構造,衛生設備,什器に至るあらゆる分野をすべて含んだ設計過程の首尾一貫性を指摘しておけばよい。こうした考え方を固めながら数多くの設計例にぶっかって行くと,個別のケースの積重ねの中から,造型上の問題や技術的なテーマと同時に,社会的に共通した課題がそれ等の背後から浮び上って来る。僕はこうした集成の方向から住宅問題へのアプローチを考えて行こうとした。はじめから住宅問題や住宅政策をとり上げることを避けて,より内在的な形から近ずいて行くことが日本の現状では,より正確なものを探し得ると考えたからである。
1953年の夏,K建設の建売住宅の(3Kハウス)の計画を依嘱され,やや新しい平面計画を試みた。未だ地価の高騰する以前だったので,25~40坪の土地を含んだ建築費が,坪当り35,000円前後というローコストハウジングであったが,12戸という小さなグループでは配置計画にはじまる綜合計画を実現するわけに行かず,また工法も,工数の切下げと段取りの整理を目指してせいぜい単純な手法に統一するというに止まっている。
しかしここに示されたプラニングの思い切った立式への移行は,当時の建売住宅のどれにも見られなかったものである。これは短期間に売尽されたのでK建設は第2次3Kハウス同じく12戸をこの年の暮に計画した。前者は緩勾配鉄板屋根で乾式構造をとったのに反し,第2次では瓦屋根とシックイ壁という後退を示した。前者の好評にもかかわらずK建設は,より魅力的な工法と考えたからに違いない。そして我々はプランのみを押してあとはK建設にまかせた。結果は同じである。つまり,平面計画はどちらも住み手によって消化され,スタイルは大した問題とされなかった。
1954年,大和生宅協同組合の計画する20戸の都融資分譲住宅の設計をすることになった。融資は建築費の半額に充たず,土地を含んだ建設費も一戸あたり40~60万に抑えるというきりつめられた条件の枠で,9.75坪,11坪,12.75坪の3種の平面をつくり,建築費は坪当り31,000円程度に抑えた。内壁のパネル化はほぼ予定どおり実現され,現場運営も予期に近い成績てあったが,土地のコストを最低に抑えたため,求められた敷地はやや交通の便が悪かったことと,完成期がデフレ最低線をつくこの年の暮だったことなどの悪条件が重なり,一時は設計上の責任を感じる程に入居がおくれたが,最近漸く殆ど分譲し尽す状態になった。入居者とこの住宅との接触はしかし危惧されたいくつかのギャップも殆ど問題にならなかった。3Kハウスに比して数歩前進したこの平面計画は,ここで全く客観性を持っことになった。つまり特定の施主との接渉といういわゆる授業の段階をぬきにしたこのような住宅計画において,たしかな需要を得たということに私共は勇気ずけられる。
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●「楽しい生活と住宅博覧会」1956
・【未来が明るかった頃(1)】原子力飛行機に未来の希望2015/03/25
・【未来が明るかった頃(2)】郊外開発住宅地の戦後モダンリビング建売2015/03/27
・【未来が明るかった頃(3)】新興郊外住宅地は建築家デザイン住宅2015/03/28
・【未来が明るかった頃(4)】異形の山口文象+RIA設計建売モデル住宅2015/04/07
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●住宅設計競技概評(週刊朝日より) 山口文象
(『楽しい生活と住宅博覧会』朝日新聞社1956年11月1日発行)
応募作品364点中から入選作3点を得た。池田氏の作品は構造計画に無理がなく、低建設費でプランも良い。北原氏の作品は関西式住宅。現代的でしかも生活習慣を変えずにすめるのが特徴。F4グループ作品は鉄筋コンクリートではとかく大きくなりがちな構造を小さい柱で押さえたてんがよかった。応募作品全体を通じての印象は、鉄筋コンクリート構造と小住宅の関係についての研究と突込みが充分とは言えない。スケールの大きなものとの間には必然的に違った構想がなければならないと思う。したがってプランは構造とは違った発想からなり、木造的な考え方を出ない。鉄筋コンクリートにはそれなりのプラニングが有るはずだと思うが、そういうものがほとんど見当たらなかった。入選作品は優秀なものではあるが、上述の点でまだ十分安心できる元はいえない。主催者側と作家との間に詳細な検討が必要であると思う。いずれにしえもこの企画が若い有能な建築家の参加を得て、一応成功したことは喜んでよいことであり、この刺激が一般の人達の新しい住宅への関心を深める契機となるに違いない。
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●λ(ラムダ)ハウス 近藤正一
(『疾風の意ごとく駆け抜けたRIAの住宅づくり』2013年 彰国社 76ページ)
竣工年:1960 所在地:奈良県奈良市 延面積:119.1㎡
一九六〇年、近畿日本鉄道が、奈良の学園前周辺の新しい住宅地開発の先鞭として、数名の建築家に委託して、建売住宅としてのモデルハウスをつくらせた(p96参照)。当時としては、かなり規模の大きな高級建売住宅であり、いかにも関西の持ち家のレベルの高さを示すものであった。
その屋根の形からλハウスと呼ばれるこの住宅は、そのモデルハウスの1軒であった。この住宅は、RIAにとってのいくつかの主要テーマ、スクエア、ゾーンブラン、そして日本的架構(λ形の屋根)が見られ、RIA住宅の時代中期の象徴的な作品であった。
規模だけを与えられた建売住宅において、この三つのテーマは、まさに不特定な住まい手に対する設計者側の重要な設定であると同時に、商品としての売りでもあった。
まず限定したスクエアという枠組みの中で、不特定な住み手の経年変化に耐え得る、緩やかな空間を与えることを想定し、住み方として固定化を可能な限り避ける自由さを残すことを目指した。
それでいながら、住まい方の秩序づけのために、東西軸で三列、南北側で三列のゾーニングを行っている。すなわち、東から西へ、個室群、共用群、設備のゾーン、南から北へ子供中心、家族共同、大人中心のゾーンという具合に縦横に交差する綾織りのようなゾーニングにより、秩序づけと同時に、室間の緩やかさを増幅させることができた。
そして、このスクエアに対して、時々RIAが行ってきた中央集中型の屋根伏を採用すれば、平面と同調するばかりでなく、かえって綾織りのゾーニングに対して無策すぎると考え、当時、建材としては出始めたばかりの集成材を利用することによって、Z軸側を上位概念とする思い切りを行った。その結果、東西軸に対するゾーンの空間に、日本の伝統的な形態のアナロジーを表現でき、技術面でも、自然採光、通風を巧みに活かすことが可能になった。
このようにして、主張した三つのテーマが見事に噛み合った住宅ができたのであったが、あまりにもこの噛み合いの完成度が高かったため、以後、これに類形した作品が生まれることはなかった。
●近鉄登美丘建売住宅 植田一豊
(『新訂 建築学体系38 木造設計例』1969年 彰国社 212ページ)
錦戸邸に次ぐ正方形計画の住宅であるが,この住宅も数多くの計画理論を発展させるために忘れることのできないもののひとつである。
外郭が正方形であることは,生活側の条件整理のさい,悪くすればあまりに形式主義におちいり,その住宅の機能的年令を短くしてしまうし、なによりも計画理論のマンネリ化を呼んでしまうものなのである。
そこで,生活分析から計画をすすめていく,前にも述べた,中村邸・加村邸・山名邸・川合邸という別の系列が思いうかぶのである。これらの一群は,生活編成の啓蒙的性格をもちながら,内部空間のつくり方に,比較的しなやかな,自由な性格づけをすることができた。
それは,主空間として家全体を単純な屋根伏によって構成されているひろがりを考え,次に正方形の主空間の対角線にのった居間の切りとりを「第二の空間」とし さらに残りの部屋をL型に構成される補助空間として,居間空間と呼応させながら分離するという流動性をねらっているからである。
とくに,山名,川合邸は,はじめからRIAが経験としてもいた空間を洗練させるというプログラムによって実施されたので,住宅の実用性と空間性との相互関連を十分つかみきっていた。
住宅では,もう一つの問題として,錦戸邸で試みられた概念念操作をさらに発展させる目的をはじめから持だされたのである。
なぜなら,住宅に住む家族はこの場合未知数であるため,この住宅に合った家族入居を考えてよいわけであった。
言い換えれば,空間構成と家族の生活空間の必要度の関係は、錦戸邸と共通して,RIAの系列の中では,もっともゆるやかなものにはいるからである。
規模ががやや大きいため,四人家族を想定して計画はすすむ。そして正方形の外郭をできるだけ同室に分割する。この場合の単位構子を3列×3列となっている。
この平面形状の厳密な分割に対して、もしも中央集中型の屋根伏を採用すれば、平面は余りに同調(シンクロナイズ)してしまう。
そこで、この計画のように概念の階級化という作業を、Z軸側を上位概念とすることから始めてゆき、具体的には曲線を用いた大きな屋根を採用する。
実は、この曲線の形態についても、この当時はやや観念化がゆきすぎていたのだが、日本の伝統形態をアナロジックに模倣するというようなことを念を入れて行ったのである。
最後に、この屋根は啓蒙時代の技術主義の延長として、集成材を用いる。これは今回の木造住宅という主題に対して意識的に、木造建築の社会的位置を予言しようとしたものと言える。
ただ造型的にみて、錦戸邸と同じく、この細身の構成比率はRIAの体質をあまりによくあらわしているので、壁がRCや、コンクリートブロックである場合を想像することは難しい。
したがって集成材や、もっと広く考えて木質という建築材料による空間構成の原理をつめていく仕事を、ここで期待することはできない。
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