1930(昭5)28歳 <経済恐慌、ロンドン軍縮j条約、帝都復興記念式典、大塚女子アパートメント>
■著述:第2回建築思朝講演会『新興建築家の実践とは』(国際建築12月号)、座談会『勤労者の住宅について』
1931(昭6)29歳 <15年戦争、官吏減法騒動、綿業会館、東京中央郵便局、東京帝室博物館コンペ、 サヴォイ邸> 白ロシアを経由してヨーロッパへ。7月ベルリンのワルター・グロピウス(当時バウハウスを退いてベルリンで設計活動中、後にアメリカに亡命し設計組織TACを結成)アトリエメンバーになる(グロピウスアトリエでの仕事:ソビエトパレスコンペ、プレスラウジードルング、AEG職工住宅、カールスルーエジードルングコンペ)。 ベルリン反帝グループの一員として活動(藤森成吉、勝本清一郎、佐野碩、三枝博音、山田智三郎、千田是也、八代幸雄、中原実など)。プロレタリア建築展覧会に出品参加。 カールスルーエ工科大学のレーボック教授の下で黒部小屋平ダムに関する水理調査研究。
◆作品:★
菊池一雄アトリエ(戦後になって建築家池辺陽によって増改築されたが一部現存)
1932(昭7)30歳<満州国、5.15事件、青年建築家連盟、建築科学研究会、デザム、銀座和光ビル、御茶ノ水駅舎>
5月ドレスデン、プラハ、ウィーン、フィレンチェ、ミラノ、ミュンヘン、フランクフルトの旅からベルリンに戻る。
6月18日ベルリン出発、パリ(ル・コルビジェを訪問)をへて、23日マルセイユから靖国丸にて帰国の途へ。ナポリ、ポーロサイド、スエズ運河、シンガポール、上海、神戸をへて7月29日横浜港に帰着(山口談話では、ナチを逃れて亡命するグロピウスと共にベルリンから南へ脱出行、イギリスに渡りしばらく滞在とあるが、渡欧時の手帳に記載が無いし時期がグロピウス側の1934年とする諸記録と合わない)。 麹町富士見町の有島生馬の貸家を事務所として仕事を始める。川裾逸美が最初の所員。
校長の息子の中原実の依頼で日本歯科医科専門学校付属医院の設計にとりかかる。その設計を巡って山口を中傷する怪文書が出されたり、警視庁への建築許可申請でピロティが難癖つけられたという。
■講演:欧州建築夜話(「建築科学」11月号)
1933(昭8)31歳<国際連盟脱退、ヒットラー政権、ニューディール、新興建築家連盟、大阪ガスビル>
仲田菊代アトリエ
■著述:『1933年を回顧する』(新建築12月号)
1934(昭9)32歳<満州国、ワシントン条約破棄、グロピウスロンドン亡命、明治生命館、軍人会館、江戸川アパート>
◆作品:★関口泰邸茶室及び会席(1970年頃に建築家榛沢敏郎氏の所有、2017年浄智寺所有、2018年4月より「北鎌倉 宝庵」と名付けて鎌倉古民家バンクの運営で公開)、安井曽太郎アトリエ、 1935(昭10)33歳 <天皇機関説問題、土浦自邸、大阪十合百貨店>
事務所所員は川裾逸美と角取広司(川裾が洋風建築、角取が和風建築を主に担当)
◆作品:宇奈月延対寺旅館増築、☆富山高校小泉八雲図書館(ヘルン文庫)、 ★若槻礼次郎像台座、安井先生のアトリエ(「アトリエ」アトリエ社1935.2)
1937(昭12)35歳<日中戦争、宇部渡部翁記念会館、東京帝室博物館、愛知県庁舎、パリ万博日本館>
◆作品:★酒井憶尋邸、二見邸、銀座ソシアル喫茶店、日本電力猫又合宿所
■著述:『建築論』(三笠全書)を執筆するも公安検閲で出版不可
1938(昭13)36歳<国家総動員法、産業報国連盟、第1生命相互館、東京女子大学チャペル、慶応日吉寄宿舎>
遠藤正巳所員に
◆作品:荏原製作所本社社屋、中央工業大森工場宿舎及び青年学校、
F邸(二見邸 「建築世界」1939年6月号)
■著述:『堰堤随感』(国際建築9月号)、『ブルーノ・タウトの死』(「セルパン」1938.3月号)、 1939(昭14)37歳<ノモンハン事件、国民徴用令、若狭邸、大阪中央郵便局>
千坂喜美子と結婚。和田富朗、榊原博入所
◆作品:日本歯科医専杖痕ヒュッテ、大森機械工養成学校・共同寄宿舎等、荏原製作所羽田工場付属病院、築地小劇場改装(小山内薫らの演劇運動で有名な劇場、前川國男と共同の仕事) ■著述:『ブルーノ・タウトの死』(「セルパン」1938.3月号)
1940(昭15)38歳<大政翼賛会、日独伊三国協定、大日本産業報国会、皇紀2600年、住宅営団、大同都市計画>
矢内弘入所
◆作品:★山口自邸、★林芙美子邸(現・新宿区立林芙美子記念館)、日本ゴム工員寄宿舎、川崎住宅元住吉労務者住宅群、荏原製作所寄宿舎、浦賀小学校奉安殿 1941(昭16)39歳<太平洋戦争、岸記念体育館>
京橋銀一ビルに事務所移転、仲4号館は書斎。渡刈雄、久保富夫、岡田敏雄入所
◆作品:秋田製鋼鶴見工場寄宿舎、佐々木象道アトリエ、昭和飛行機信州工場、冨士飛行機青年学校、横尾海軍中将邸
■著述:「勤労者の住宅について」(座談会「民芸」7月号)
1942(昭17)40歳<大東亜記念造営コンペ>
山口文象と称する(後年に戸籍も改名)、小町和義(山口家に住み込み書生、後に平松建築事務所、現・番匠設計主宰)、吉原幸雄、寺田弘、山口和男入所 ◆作品:☆光海軍工廠寄宿舎、東京市大森工員寄宿舎、国産軽銀岩手工場寄宿舎、住友金属和歌山工場中松江第1寄宿舎、富士飛行機工員寄宿舎、上代たの邸
1943(昭18)41歳<学徒動員、大東亜会議、日泰文化会館コンペ>
◆作品:熱海酒井邸、五味邸、荏原製作所羽田工場寄宿舎、日本機械製鎖工員宿舎、光海軍工廠松原口工員寄宿舎群、住友金属和歌山工場中松江第2寄宿舎、日泰文化会館コンペに応募落選
1944(昭19)42歳<米軍による爆撃、防空法による都市に疎開命令>
徴兵等で所員激減、山口と小町のみになる
◆作品:☆東北帝大大回流水槽高速力学研究所、住友金属和歌山中松江第3寄宿舎、荏原鋳造工員寄宿舎、神田地区防火改修計画(空襲に備えて建物疎開)
1945(昭20)43歳<主要都市空爆被災、太平洋戦争敗戦終結、戦災復興計画>
長野県小海村に家族で疎開、3月東京大空襲で京橋事務所が被災して事務所を丸ノ内に移す
◆作品:相模湖芸術家村構想(画家の猪熊玄一郎や脇田和らの疎開先だった相模湖畔の村づくり構想)
1946(昭21)44歳<新憲法、農地改革、プレモス住宅>
日本民主建築会の世話人活動。所員は山口栄一(山口文象の実弟で東京美校の出)、浅見、遠藤、小町、二見(後に日建設計社長)、古橋
1947(昭22)45歳<社会党内閣、6・3制教育、新日本建築家集団NAU>
新日本建築家集団(NAU)結成に参加、中央委員、建築運動史講座の講師など活動
事務所を千駄ヶ谷の千坂邸に移す
◆作品:☆ニエ・アルの碑
1948(昭23)46歳<福井地震、藤村記念堂>
1949(昭24)47歳<紀伊国屋書店、全造船会館、ジョンソンワックス研究所>
2月事務所解散(小町和義氏によれば仕事が全くなくなったため)
猪熊弦一郎と企画して美術団体の新制作派協会に建築部を新設(池辺陽、猪熊弦一郎、岡田哲郎、剣持勇、谷口吉郎、丹下健三、前川國男、吉村順三、山口文象) ◆作品:☆総同盟会館・全繊同盟会館(空襲被災し後に改装して食堂と住宅になっていた青雲荘・友愛病院の隣に建てた2階木造事務所)。早川巍一郎邸 1950(昭25)48歳<朝鮮戦争-53、特需景気>
◆作品:☆久ヶ原教会(猪熊玄一郎の紹介、現在の建築はRIA設計で建替え)、 ☆神戸博覧会序曲舘等(新制作派協会で神戸博覧会の施設を計画設計して山口担当)、千葉邸、高林邸、明大大学院校舎計画
1951(昭26)49歳<SF講和条約、日米安保条約、都市計画学会、リーダイ東京支社、鎌倉近代美術館>
この頃から新たな共同体としての設計組織を三輪正弘と模索
1952(昭27)50歳<日活国際会館、日本相互銀行、マルセイユアパート>
協同設計体RIAグループを結成(山口文象+植田一豊+三輪正弘、RIA:Research Institute of Architecture、通称はリア)
三枝博音や財界人と「備菴会」(趣味の古美術研究会)
■著述:「我々の問題としてのローコスト住宅」(新建築10月号)、朝日住宅相談室(婦人朝日連載)
1953(昭28)51歳<広島世界平和祈念聖堂、東京厚生年金病院、法政大学>
RIA建築綜合研究所(現㈱アール・アイ・エー)を設立(メンバーは山口・植田・三輪・山口栄一。接収解除された三菱仲4号館1階、三枝博音の東西文化交流研究所も同居。三輪正弘の父の政治家・三輪寿壮事務所も同じビル内2階にあり後にRIA事務所となる) ◆作品:東京印書館工場、大田区政会館計画案(「建築文化」 彰国社1953.12)、大久保博士邸(「国際建築」1953.7)、
土田邸(「モダンリビング 第7集」婦人画報社1953)
■著述:『住宅志言』(新建築11月号)、『住宅』(朝日新聞社)、
1954(昭29)52歳<神奈川県立図書館・音楽堂、清家自邸、渋谷東急文化会館、ロンシャンノートルダム教会
RIAに近藤正一が参加(後に㈱アール・アイ・エー社長、会長)。
来日したグロピウスが山口と再会、日本歯科大学を見て丸の内仲4号館RIA来訪。
■著述:『庶民住宅をどうするか』(座談会 新建築4月号)、
『「バウハウス」とグロピウス』(「机」紀伊国屋書店1954.4)
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1955(昭30)53歳<政界55年体制、日本住宅公団設立、国際文化会館、ロンシャン教会堂>
この頃から建築家の思想についての発言が多くなる
1956(昭31)54歳<神武景気、チームX、秩父セメント工場、松井田町役場>
この頃からぜんそくで苦しむことが多くなる
1957(昭32)55歳<広島平和記念資料館、東京都庁舎、読売会館、京都会館>
山口瀧蔵の戸籍名を山口文象と改名
■著述:『家具はだれのものだ』(建築文化3月号)
1958(昭33)56歳<香川県庁舎、東京タワー、晴海高層住宅、スカイハウス>
集団設計方法と組織原理を模索しはじめる
1959(昭和34)57歳<伊勢湾台風、岩戸景気、国立西洋美術館>
RIAを株式会社建築綜合研究所として代表取締役所長となる。所員16名。
1960(昭和35)58歳<安保反対闘争、「都市のイメージ」(Kリンチ)>
肺気腫で入院
◆作品:★美術家会館
1961(昭和36)59歳<人工衛星、東京文化会館、千里ニュータウン着工>
交通事故で骨折。
1962(昭和37)60歳<貿易自由化、高蔵寺ニュータウン(着工)、リチャーズ医学研究所>
◆作品:☆神大体育舘、★久が原教会(建て替え)
1963(昭和38)61歳<新産業都市、、日生劇場、ベルリンフィルホール、レスタ大学工学部、イェール大学建築学部>
東大沖中内科入院
1964(昭和39)62歳<東京オリンピック、国立代々木競技場>
日本建築家協会理事
1965(昭和40)63歳<ベトナム戦争、大学セミナー・ハウス、イコモス>
東京工業大学工学部建築学科非常勤講師(~1970)
◆作品:★伊豆富士見ランド、大河内一男邸
1966(昭和41)64歳<公害問題、古都保存法、美観論争、霞ヶ関ビル、パレスサイドビル>
久が原教会でキリスト教の洗礼を受ける
1967(昭和42)65歳<革新系首長、塔の家>
朝鮮大学校設計で朝鮮民主主義人民共和国より受勲
1968(昭和43)66歳
黄綬褒章授章
■著述:『思想と現実の狭間における建築家の意識』(「都市住宅」12月号)
『家具のデザインとその産業を考える』(「工芸ニュース」丸善1968.1)
1969(昭和44)67歳<大学紛争>
新建築技術者集団に参加
『座談会 分離派・中央電信局・山田守』(「建築記録中央電信局」1969)
1970(昭和45)68歳<大阪万博、新建築家技術者集団、東京海上ビル>
安保をなくして民主主義を進める建築技術者の会に参加
■著述:『山口文象とRIA』(三一書房)、『座談会 建築と演劇』(「現代日本建築家全集11・坂倉順三・山口文象とRIA」1971)
1971(昭和46)69歳
1972(昭和47)70歳
◆作品:三国邸、千葉邸
■講演:「建築学生は何を学ぶか」(12月10日建築学生連絡会主催・東京大学駒場にて、200名参加。記録は「ある建築学生の群像 建築学生連絡会10年史」)
1973(昭和48)71歳<オイルショック、シドニーオペラハウス>
この頃から、建築家の戦争責任を問う講演をたびたび行う。
1974(昭和49)72歳
■講演:「建築家として想う 昨日、今日、そして明日」(10月12日新建千葉支部設立大会記念講演)
1975(昭和50)73歳
株式会社建築綜合研究所取締投会長
◆作品:岡崎女子高校
1976(昭和51)74歳<倉敷アイビー・スクエア、住吉の長屋>
◆作品:★渋川市民会舘
■対談:『兄事のこと』(『建築をめぐる回想と思索』ききて:長谷川尭) 1977(昭和52)75歳
株式会社建築綜合研究所相談役
この頃より山口文象作品集編纂始まり、5月4日に編集関係者と都内の作品を見て歩く(浜離宮南門橋、清洲橋、酒井邸、日本歯科大、朝日新聞社、鎌倉旧関口邸茶席等 を見て、鎌倉にて食事しながらインタビュー、同行者は編集関係者の佐々木宏、長谷川尭、河東義之、植田実、山口子息の山口次郎)
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