建築家 山口文象 人と作品 総合年表 

                          伊達美徳 編集

      (2018/02/22改訂版 ★印:建物等現存確認、☆印:建物等取壊確認)

1902(明35)  <日英同盟、日露戦争(1904)、三井本館、横浜正金銀行(1904)、赤坂離宮(1909)、帝国劇場(1911)>
1月10日 東京・浅草に出生戸籍名は瀧蔵(後に文三、蚊象、文象と3度も改名)、祖父・源右衛門は宮大工、父・山口勝平は清水組大工棟梁、母いち、4男3女の次男

1910(明43)8歳
月・岡村(母方叔母)養子縁組 、1930年まで岡村姓

1915(大4)13歳第1次大戦(1914-)、戦争景気、大正デモクラシー>

東京高等工業学校附属職工徒弟学校木工科入学(現・東京工業大学付属科学技術高等学校)

1918(大7)16歳シベリア出兵、米騒動、経済恐慌、東京海上ビル>
職工徒弟学校卒業、清水組(現・清水建設)定夫となリ建設現場勤務

1919(大8)17歳大日本労働総同盟友愛会、都市計画法、市街地建築物法、ワイマールバウハウス開校>
清水組の名古屋に転勤、工場や銀行の建設現場勤務

1920(大9)18歳第1回メーデー、分離派建築会結成、日本工業倶楽部>
建築家になりたくて清水組を退職。中條精一郎の紹介で逓信省経理局営繕課の製図工に就職。
逓信省建築家のもとで建築修業、岩元禄に兄事して☆青山電信局、京都西陣電話局等に携わる

1921(大10)19歳ワシントン軍縮会議、東京市長後藤新平の都市計画案>
大阪転勤、梅田穣(後に創宇社建築会メンバー)と大阪逓信局舎建設現場監理。
京都奈良の古社寺や茶室建築を調査研究。

1922(大11)20歳 自由学園明日館、帝国ホテル>
天下茶屋に下宿。東京に帰任、技手に昇格

1923(大12)21歳関東大震災、戦災経済恐慌、帝国ホテル、創宇社建築会建築会結成、日本郵船ビル、丸ビル>
上司の山田守に認められて釧路郵便局等の設計。東京美校で伊東忠太の日本建築史を聴講。分離派建築会会員になる。
9月関東大震災直後に逓信省製図工仲間と「創宇社建築会」を旗揚げ(創立メンバーは、岡村(山口)象、小川光三、専徒栄記、広木亀吉の5名、後に海老原一郎、今泉善一、河裾逸美、竹村新太、道明栄次、渡刈雄、野口巌、平松義彦、広瀬初夫、古川末雄、山口栄一 が参加。山口が渡欧中の1931年に官吏減俸騒動に巻き込まれたメンバーが逮捕され、事実上は活動停止)

1924(大13)22歳 <同潤会設立、築地小劇場、アインシュタイン塔>
内務省帝都復興局の橋梁課嘱託技師、山田守のもとで清洲橋浜離宮南門橋豊海橋、☆数寄屋橋、八重洲橋等のデザインに関る。
復興局橋梁課田中豊の紹介で日本電力の嘱託技師となり、石井頴一郎(土木技術者、後に関東学院大学教授)のもとで日本電力庄川水系のダム等のデザインに関る
◆作品:創宇社第2回展丘上記念塔、K氏住宅、劇場)、分離派第4回展(住宅、大連中央停車場案)、松田邸計画案
■著述:『制作する心』(分離派作品集第三)

1925(大14)23歳治安維持法、普通選挙法、同潤会、歌舞伎座、東京中央電信局、八重洲橋
創宇社第 3回展
◆作品:創宇社第 3回展(商店、音楽堂、住宅2案、橋、舞台装置模型)、大連駅本屋設計競選外佳作2席(弟・儀(栄一)名義で応募)
■著述:『創宇社第三回展覧会と我々の態度』(建築思潮9月号)、『創宇社建築展』(「マヴォ」第7号)、住宅地に建てられる店舗(「店舗及住宅」1925年12月号)

1926(昭1)24歳 <デッソウバウハウス校舎、国際連盟会館コンペ、紫烟荘、浜離宮南門橋
仲田定之助、中原実ら美術家たちと芸術運動団体「単位三科」旗揚げ 。
竹中工務店設計技師となリ、石本喜久治のもとで東京朝日新聞社屋の設計助手
◆作品:分離派第5回展市民会館数寄屋橋、壁掛け)創宇社第4回展(面と線、或る建築草案、建築形態の究極?)

1927(昭2)25歳 <金融恐慌、地下鉄浅草ー上野間、インターナショナル建築会、大隈講堂、蔵前橋、聖橋>
片岡・石本建築事務所に移籍して主任技師(日本橋白木屋百貨店三宅やす子朝日新聞社社員クラブ、山叶商会等設計担当。白木屋の設計は、大阪在住の石本が送ってくるスケッチをもとに山口が創宇社仲間と設計実務作業。戦災後に坂倉順三設計で大改装、その後東急百貨店となっていたが1999年廃業2001年取壊)。
大井瀧王子に住む(創宇社建築会仲間の活動拠点となり、アルバイト設計の場)
◆作品:分離派第6回展(工業地帯に建つアパートメント計画、楯石意匠、緞帳意匠)、劇場の三科展(ファリフォトン)、創宇社第5回展(商店A、商店B、住宅、橋畔に建つ休憩所)、山崎商店(東京、事実上の個人による処女実作建築) 
■著述:『橋を語る』(工芸時代9月号)


1928(昭3)26歳 <CIAM、グロピウスがバウハウスを辞めベルリンへ、聴竹居、神奈川県庁舎、清洲橋、首相官邸>
白木屋百貨店第1期完成(石本事務所での担当)
■著述:『Internationale Neue Baukunst』(ヒルベルザイマー著の翻訳 アトリエ9月号)

1929(昭4)27歳 <金解禁、不況、「蟹工船」、厩橋、駒形橋、豊海橋、三井本館>
この頃から創宇社活動が左傾化。安井曽太郎の紹介で能勢某嬢と婚約(滞欧中に破談)。
石本事務所を退職(石本は創宇社の左傾化を嫌って事務所員の山口、野口、渡刈に退会を促したが3人とも反発して退職、以後山口石本の確執は日本歯科医専の設計でも起きる)。
☆朝日新聞社員クラブ☆山叶商会(いずれも石本で担当)創宇社第6回展(出品せず)。
◆作品:仲田勝之助邸創宇社第7回展(離れの書斎、家具セット)。
■著述:第1回建築思潮講演会『合理主義反省の要望』,『明日の建築へ』(「アルト」4月)、新建築における唯物史観』(アトリエ9月号),『新興建築について』(「近代生活」12月)

1930(昭5)28歳 <経済恐慌、ロンドン軍縮j条約、帝都復興記念式典、大塚女子アパートメント>
新興建築家連盟結成に参加。来日した建築家リチャード・ノイトラに会い欧州事情を聞く。
12月朝鮮、満州、シベリア経由渡欧の旅へ(渡欧目的はグロピウスに弟子入り、日本電黒部小屋ノ平ダム設計に関する調査。山口談話では白ロシアで左翼国際機関と連絡目的とも)。
◆作品:名古屋市庁舎コンペ応募落選。創宇社建築会でウクライナハリコフ劇場コンペ応募落選創宇社第8回展紡績工場の女工寄宿舎の提案、創宇社建築会最後の展覧会
■著述:第2回建築思朝講演会『新興建築家の実践とは』(国際建築12月号)、座談会『勤労者の住宅について』

1931(昭6)29歳 15年戦争、官吏減法騒動、綿業会館、東京中央郵便局東京帝室博物館コンペ、 サヴォイ邸>
白ロシアを経由してヨーロッパへ。7月ベルリンのワルター・グロピウス(当時バウハウスを退いてベルリンで設計活動中、後にアメリカに亡命し設計組織TACを結成)アトリエンバーになるグロピウスアトリエでの仕事:ソビエトパレスコンペ、プレスラウジードルング、AEG職工住宅、カールスルーエジードルングコン
ベルリン反帝グループの一員として活動(藤森成吉、勝本清一郎、佐野碩、三枝博音、山田智三郎、千田是也、八代幸雄、中原実など)。プロレタリア建築展覧会に出品参加。
カールスルーエ工科大学のレーボック教授の下で黒部小屋平ダムに関する水理調査研究。
◆作品:
菊池一雄アトリエ戦後になって建築家池辺陽によって増改築されたが一部現存)


1932(昭7)30歳満州国、5.15事件、青年建築家連盟、建築科学研究会、デザム、銀座和光ビル、御茶ノ水駅舎>

5月ドレスデン、プラハ、ウィーン、フィレンチェ、ミラノ、ミュンヘン、フランクフルトの旅からベルリンに戻る。
6月18日ベルリン出発、パリ(ル・コルビジェを訪問)をへて、23日マルセイユから靖国丸にて帰国の途へ。ナポリ、ポーロサイド、スエズ運河、シンガポール、上海、神戸をへて7月29日横浜港に帰着(山口談話では、ナチを逃れて亡命するグロピウスと共にベルリンから南へ脱出行、イギリスに渡りしばらく滞在とるが、渡欧時の手帳に記載が無いし時期がグロピウス側の1934年とする諸記録と合わない)。
麹町富士見町の有島生馬の貸家を事務所として仕事を始める。川裾逸美が最初の所員。
校長の息子の中原実の依頼で日本歯科医科専門学校付属医院の設計にとりかかる。その設計を巡って山口を中傷する怪文書が出されたり、警視庁への建築許可申請でピロティが難癖つけられたという。
■講演:欧州建築夜話(「建築科学」11月号)

1933(昭8)31歳国際連盟脱退、ヒットラー政権、ニューディール、新興建築家連盟、大阪ガスビル>
◆作品:小泉八雲記念舘ドイツワイマールゲーテ記念館を模したとされる)、藤川勇三アトリエ
 仲田菊代アトリエ
■著述:『1933年を回顧する』(新建築12月号)

1934(昭9)32歳<満州国、ワシントン条約破棄、グロピウスロンドン亡命、明治生命館、軍人会館、江戸川アパート>
日本画家前田青邨の娘と結婚して芝白金に住む(ブルーのタウトの日記に結婚式招待状をもらって石本との板ばさみで当惑する記述)。白金自宅に山口蚊象建築事務所設立。
◆作品:関口泰邸茶室及び会席1970年頃に建築家榛沢敏郎氏の所有、2017年浄智寺所有、2018年4月より「北鎌倉 宝庵」と名付けて鎌倉古民家バンクの運営で公開)、安井曽太郎アトリエ、
日本歯科医学専門学校附属医院山口の出世作、校長の息子の前衛画家中原実の作品とも言える)
 日本電力宇奈月合宿所、岡田邸、松平頼寿像台座、東京市庁舎コンペに応募落選

1935(昭10)33歳 <天皇機関説問題、土浦自邸、大阪十合百貨店>
事務所所員は川裾逸美と角取広司(川裾が洋風建築、角取が和風建築を主に担当)
◆作品:宇奈月延対寺旅館増築、☆富山高校小泉八雲図書館(ヘルン文庫)、
 ☆西竹一(バロン西)邸、山田智三郎邸、矢代幸雄邸、林邸、愛知県庁舎コンペ応募落選、
若槻礼次郎像台座、安井先生のアトリエ(「アトリエ」アトリエ社1935.2)
■著述:『明日の住宅は?』(「住宅」1月号)

1936(昭11)34歳 
<2.26事件、日独防共協定、日本工作文化連盟、国会議事堂、野々宮アパート、落水荘>
丸ノ内の三菱仲4号館に事務所を移す。大森区久が原に転居(小林邸)。浅見静雄所員に。
◆作品:☆青雲荘アパート・友愛病院、番町集合住宅白樺派作家有島生馬がオーナー、超モダン高級集合住宅)、小林邸安井曾太郎邸玄関、前田青邨邸アトリエ前田側資料の展覧会目録の1939年と合致しない)、山形梅月堂現・YT梅月館)日本電力黒部第2発電所と関連施設発電所建物、目黒橋、小屋平堰堤、沈砂池換気塔など一連の設計デザイン)、箱根湯本山崎ダム・発電所

1937(昭12)35歳
<日中戦争、宇部渡部翁記念会館、東京帝室博物館、愛知県庁舎、パリ万博日本館>
◆作品:★酒井憶尋邸、二見邸、銀座ソシアル喫茶店、日本電力猫又合宿所
■著述:『建築論』(三笠全書)を執筆するも公安検閲で出版不可

1938(昭13)36歳<国家総動員法、産業報国連盟、第1生命相互館、東京女子大学チャペル、慶応日吉寄宿舎>
遠藤正巳所員に
◆作品:荏原製作所本社社屋、中央工業大森工場宿舎及び青年学校、
 F邸(二見邸 「建築世界」1939年6月号)
■著述:『堰堤随感』(国際建築9月号)、ブルーノ・タウトの死』(「セルパン」1938.3月号)、
民家風の一住宅(「住宅」1938年?月号)

1939(昭14)37歳<ノモンハン事件、国民徴用令、若狭邸、大阪中央郵便局>
千坂喜美子と結婚。和田富朗、榊原博入所
◆作品:日本歯科医専杖痕ヒュッテ、大森機械工養成学校・共同寄宿舎等、荏原製作所羽田工場付属病院、築地小劇場改装小山内薫らの演劇運動で有名な劇場、前川國男と共同の仕事)
■著述:『ブルーノ・タウトの死』(「セルパン」1938.3月号)

1940(昭15)38歳<大政翼賛会、日独伊三国協定、大日本産業報国会、皇紀2600年、住宅営団、大同都市計画>
矢内弘入所
◆作品:山口自邸林芙美子邸(現・新宿区立林芙美子記念館)、日本ゴム工員寄宿舎、川崎住宅元住吉労務者住宅群、荏原製作所寄宿舎、浦賀小学校奉安殿

1941(昭16)39歳<太平洋戦争、岸記念体育館>
京橋銀一ビルに事務所移転、仲4号館は書斎。渡刈雄、久保富夫、岡田敏雄入所
◆作品:秋田製鋼鶴見工場寄宿舎、佐々木象道アトリエ、昭和飛行機信州工場、冨士飛行機青年学校、横尾海軍中将邸
■著述:「勤労者の住宅について」(座談会「民芸」7月号)

1942(昭17)40歳<大東亜記念造営コンペ>
山口文象と称する(後年に戸籍も改名)、小町和義山口家に住み込み書生、後に平松建築事務所、現・番匠設計主宰)、吉原幸雄、寺田弘、山口和男入所
◆作品:☆光海軍工廠寄宿舎、東京市大森工員寄宿舎、国産軽銀岩手工場寄宿舎、住友金属和歌山工場中松江第1寄宿舎、富士飛行機工員寄宿舎、上代たの邸

1943(昭18)41歳<学徒動員、大東亜会議、日泰文化会館コンペ>
◆作品:熱海酒井邸、五味邸、荏原製作所羽田工場寄宿舎、日本機械製鎖工員宿舎、光海軍工廠松原口工員寄宿舎群、住友金属和歌山工場中松江第2寄宿舎、日泰文化会館コンペに応募落選

1944(昭19)42歳<米軍による爆撃、防空法による都市に疎開命令>
徴兵等で所員激減、山口と小町のみになる
◆作品:☆東北帝大大回流水槽高速力学研究所、住友金属和歌山中松江第3寄宿舎、荏原鋳造工員寄宿舎、神田地区防火改修計画(空襲に備えて建物疎開)

1945(昭20)43歳<主要都市空爆被災、太平洋戦争敗戦終結、戦災復興計画>
長野県小海村に家族で疎開、3月東京大空襲で京橋事務所が被災して事務所を丸ノ内に移す 
9月仲4号館の事務所が進駐軍に接収されて閉鎖
◆作品:相模湖芸術家村構想(画家の猪熊玄一郎や脇田和らの疎開先だった相模湖畔の村づくり構想)

1946(昭21)44歳<新憲法、農地改革、プレモス住宅>
日本民主建築会の世話人活動。所員は山口栄一(山口文象の実弟で東京美校の出)、浅見、遠藤、小町、二見(後に日建設計社長)、古橋
■著述:ブルーノ・タウト集合住宅の記録』(タウ卜より贈られた原稿を訳出)

1947(昭22)45歳<社会党内閣、6・3制教育、新日本建築家集団NAU>
新日本建築家集団(NAU)結成に参加、中央委員、建築運動史講座の講師など活動
事務所を千駄ヶ谷の千坂邸に移す
◆作品:☆ニエ・アルの碑

1948(昭23)46歳<福井地震、藤村記念堂>
◆作品:☆東京都交通局舎、★中西利男アトリエ、☆高松近代美術舘(画家猪熊弦一郎の紹介)、立教大学チャペルコンペ応募落選、広島平和カトリック聖堂コンペに応募して準佳作
■講演:THE ROTETIC VIEW OF THE MODEREN ARCHITECTUR (講演記録1948年2月8日新日本建築家集団歴史研究部会報告 東大建築家教室にて)

1949(昭24)47歳<紀伊国屋書店、全造船会館、ジョンソンワックス研究所>
2月事務所解散小町和義氏によれば仕事が全くなくなったため)
猪熊弦一郎と企画して美術団体の新制作派協会に建築部を新設(池辺陽、猪熊弦一郎、岡田哲郎、剣持勇、谷口吉郎、丹下健三、前川國男、吉村順三、山口文象)
◆作品:☆総同盟会館・全繊同盟会館(空襲被災し後に改装して食堂と住宅になっていた青雲荘・友愛病院の隣に建てた2階木造事務所)。早川巍一郎邸
■講演:「創宇社建築会について」(明治大学講堂にて)

1950(昭25)48歳<朝鮮戦争-53、特需景気>
◆作品:☆久ヶ原教会猪熊玄一郎の紹介、現在の建築はRIA設計で建替え)、
☆神戸博覧会序曲舘等(新制作派協会で神戸博覧会の施設を計画設計して山口担当)、千葉邸、高林邸、明大大学院校舎計画 

1951(昭26)49歳<SF講和条約、日米安保条約、都市計画学会、リーダイ東京支社、鎌倉近代美術館>
この頃から新たな共同体としての設計組織を三輪正弘と模索

1952(昭27)50歳日活国際会館、日本相互銀行、マルセイユアパート>
協同設計体RIAグループを結成(山口文象+植田一豊+三輪正弘、RIA:Research Institute of Architecture、通称はリア) 
三枝博音や財界人と「備菴会」(趣味の古美術研究会)
◆作品:ローコストハウス(高橋邸)、土田邸、大久保邸関東学院グレセット記念講堂(「新建築」1952.10) 
■著述:「我々の問題としてのローコスト住宅」(新建築10月号)、朝日住宅相談室(婦人朝日連載)

1953(昭28)51歳<広島世界平和祈念聖堂、東京厚生年金病院、法政大学>
RIA建築綜合研究所現㈱アール・アイ・エー)を設立(メンバーは山口・植田・三輪・山口栄一。接収解除された三菱仲4号館1階、三枝博音の東西文化交流研究所も同居。三輪正弘の父の政治家・三輪寿壮事務所も同じビル内2階にあり後にRIA事務所となる)
◆作品:東京印書館工場、大田区政会館計画案(「建築文化」 彰国社1953.12)大久保博士邸(「国際建築」1953.7)、
 土田邸(「モダンリビング 第7集」婦人画報社1953)
■著述:『住宅志言』(新建築11月号)、『住宅』(朝日新聞社)、

1954(昭29)52歳神奈川県立図書館・音楽堂、清家自邸、渋谷東急文化会館、ロンシャンノートルダム教会
RIAに近藤正一が参加(後に㈱アール・アイ・エー社長、会長)
来日したグロピウスが山口と再会、日本歯科大学を見て丸の内仲4号館RIA来訪。
◆作品:★大和住宅団地、★神奈川大学校舎研究室、石下保育園、☆大日本製糖堺工場新制作派協会として山口担当)、小町邸新滝ホテル、千葉医院、化粧ビル、衣笠の家(「新建築」1954.5)
■著述:『庶民住宅をどうするか』(座談会 新建築4月号)、
 『「バウハウス」とグロピウス』(「机」紀伊国屋書店1954.4)
1955(昭30)53歳<政界55年体制、日本住宅公団設立、国際文化会館、ロンシャン教会堂>
この頃から建築家の思想についての発言が多くなる
◆作品:神奈川大学3号館 、東京印書館工場、下中彌三郎邸、三宅艶子邸、★ニエアルの碑(再建、「日本の新建築」新建築者1956)、神奈川県住宅公社共同住宅(建築文化1955.9)近鉄建売住宅、全国工業デザインコンクール最優秀賞
■著述:『昨日・今日そして明日へ』(新建築10月号)、『RIAレポート』鼎談「戦前から戦後へ」(山口、三輪、植田 「建築文化」1955.9)

1956(昭31)54歳<神武景気、チームX、秩父セメント工場、松井田町役場>
この頃からぜんそくで苦しむことが多くなる
◆作品:東京板金川﨑工場、★第1森ビル、神大図書館
■著述:『RIAレポート』

1957(昭32)55歳<広島平和記念資料館、東京都庁舎、読売会館、京都会館>
山口瀧蔵の戸籍名を山口文象と改名
◆作品:東京部品蒲田工場 神大特別教室、麻生良方邸 
■著述:『家具はだれのものだ』(建築文化3月号)

1958(昭33)56歳<香川県庁舎、東京タワー、晴海高層住宅、スカイハウス>
集団設計方法と組織原理を模索しはじめる

1959(昭和34)57歳<伊勢湾台風、岩戸景気、国立西洋美術館>
RIAを株式会社建築綜合研究所として代表取締役所長となる。所員16名。
◆作品:朝鮮大学校 、★大森教会、原町市民体育館

1960(昭和35)58歳<安保反対闘争、「都市のイメージ」(Kリンチ)>
肺気腫で入院
◆作品:★美術家会館

1961(昭和36)59歳<人工衛星、東京文化会館、千里ニュータウン着工>
交通事故で骨折。
◆作品:三浦高校、天童木工デザインコンペ金賞

1962(昭和37)60歳<貿易自由化、高蔵寺ニュータウン(着工)、リチャーズ医学研究所>
建築年鑑賞を授賞(朝鮮大学校)、RIA10周年パーティを久が原で開催
◆作品:☆神大体育舘、★久が原教会(建て替え)
■著述:『対談 都市計画にヒューマンスケールを』(川添登「建設ニュース6月号」)、
 『対談 戦前戦中戦後』(「建築」6月号)、『RIA特集』(「建築」6月号)、
 『ハイマートローゼ』(「室内」1962.7月号)

1963(昭和38)61歳<新産業都市、、日生劇場、ベルリンフィルホール、レスタ大学工学部、イェール大学建築学部>
東大沖中内科入院

1964(昭和39)62歳<東京オリンピック、国立代々木競技場>
日本建築家協会理事
◆作品:新制作座文化センタ(現:一部は取壊し建替え、劇場と本部は使用継続、宿舎は空家)
■著述:『芝居小屋』(「建築」3月号)、『前衛建築家の宙かえり』(「新建築」6月号)

1965(昭和40)63歳<ベトナム戦争、大学セミナー・ハウス、イコモス>
東京工業大学工学部建築学科非常勤講師(~1970)
◆作品:★伊豆富士見ランド、大河内一男邸

1966(昭和41)64歳<公害問題、古都保存法、美観論争、霞ヶ関ビル、パレスサイドビル>
久が原教会でキリスト教の洗礼を受ける

1967(昭和42)65歳<革新系首長、塔の家>
朝鮮大学校設計で朝鮮民主主義人民共和国より受勲
■著述:対談・下町かたぎの建築家」(日本短波放送、海老原一郎)

1968(昭和43)66歳
黄綬褒章授章
■著述:『思想と現実の狭間における建築家の意識』(「都市住宅」12月号)
 『家具のデザインとその産業を考える』(「工芸ニュース」丸善1968.1)

1969(昭和44)67歳<大学紛争>
新建築技術者集団に参加
■著述:WALTER GROPlUS』(建築家秋号)、
 『座談会 分離派・中央電信局・山田守』(「建築記録中央電信局」1969)

1970(昭和45)68歳<大阪万博、新建築家技術者集団、東京海上ビル>
安保をなくして民主主義を進める建築技術者の会に参加
■著述:『山口文象とRIA』(三一書房)、『座談会 建築と演劇』(「現代日本建築家全集11・坂倉順三・山口文象とRIA」1971)

1971(昭和46)69歳
◆作品:是の字寺

1972(昭和47)70歳
◆作品:三国邸、千葉邸
■講演:建築学生は何を学ぶか(12月10日建築学生連絡会主催・東京大学駒場にて、200名参加。記録は「ある建築学生の群像 建築学生連絡会10年史」) 
講演:建築はどうなる」(日本建築家教会にて、記録は「建築家」夏季号」)
■対談:『対談・近代建築の目撃者』(ききて・佐々木宏)

1973(昭和48)71歳<オイルショック、シドニーオペラハウス>
この頃から、建築家の戦争責任を問う講演をたびたび行う。
◆作品:町田市郷土資料館 (現・町田市立博物館)、★岡崎名鉄グランドホテル、★京都平安教会  

1974(昭和49)72歳
■講演:「建築家として想う 昨日、今日、そして明日」(10月12日新建千葉支部設立大会記念講演)

1975(昭和50)73歳
株式会社建築綜合研究所取締投会長
◆作品:岡崎女子高校

1976(昭和51)74歳倉敷アイビー・スクエア、住吉の長屋>
◆作品:★渋川市民会舘 
■対談:『兄事のこと』(『建築をめぐる回想と思索』ききて:長谷川尭)
  建築を作る』(JIA会館、聞き手佐々木宏)

1977(昭和52)75歳
株式会社建築綜合研究所相談役
この頃より山口文象作品集編纂始まり、5月4日に編集関係者と都内の作品を見て歩く離宮南門橋、清洲橋、酒井邸、日本歯科大、朝日新聞社、鎌倉旧関口邸茶席等 を見て、鎌倉にて食事しながらインタビュー、同行者は編集関係者の佐々木宏、長谷川尭、河東義之、植田実、山口子息の山口次郎)

1978(昭和53)76歳
3月18日・山口邸で創宇社建築会の会(参加者は、海老原、梅田、竹村、山口の創宇社建築会メンバーと、山口文象作品集編集関係者)
5月19日急逝、6月1日青山葬儀所でRIAと日本建築家協会による告別式(追悼文:植田一豊、久が原教会の納骨室に眠る
■講演:「建築学科に入って建築を勉強する必要はない」(4月29日、東京学芸大学にて、全都新入生歓迎フェスティバル、専門別セミナー建築学、参加15大学164名)
■著述:地域に根をおろした建築を』(『建築士』)

1983 
『建築家 山口文象 人と作品』(長谷川尭・佐々木広宏・河東義之ほか著、RIA建築綜合研究所編 相模書房)刊行

2003 
新編山口文象 人と作品』(伊達美徳著、アール・アイ・エー)刊行

2018
『建築家山口文象の世界』(伊達美徳著、著者DTP)

2021
4月21日・山口文象後継者としてRIAを育てた近藤正一氏が逝去


*修正記録
・2008年12月大改訂。いくつかの年代誤認や新発見があったが、これからも新発見があるだろう。
・2011年2月一部訂正:山崎商店なる実作があることを「建築画報1928年1月号」に発見、1927年にできたとすればこれが処女作だろう。
・2014年7月追加:1949年に芝に「総同盟会館・全繊同盟会館」があったことが、友愛労働歴史館での「コンドルと惟一館/山口文象と青雲荘展覧会」を機会に発見。
・2018年1月:1934年関口邸茶席が浄智寺の所有となり「宝庵」と名付けて公開された。
・2018年2月:全面的に表記形式を改訂、作品写真を追加挿入。
・2021年8月:google siteからページごとbloggerに移設、2018と2021追加、作品写真削除。

参照
まちもり通信サイト(伊達美徳)