1924橋梁デザイン

山口文象+初期RIAアーカイブ 1924橋梁デザイン

・建物名称 巻頭大震災復興橋梁

・建設場所 東京・隅田川など、横浜・大岡川

・竣工時期 1920~30年代

 

●各種言説

 ●1924年内務省復興局橋梁課の嘱託技師になる
     伊達美徳
(「新編山口文象人と作品」2003より引用)

 この年2月、内務省に復興局が設置され、東京・横浜の震災被害150余の橋梁復興が土木部橋梁課の仕事だった。耐震・耐火が主眼であるのはもちろんだが、「復興帝都に相応はしからしめる為には意匠、形式、照明等も等閑に附すべきでない」(帝都復興史)の見地から建築家の協力が求められた。山田守が6月に逓信省を辞してこの橋梁課に移り、そのひきで山口も移籍した。ただし、当時の復興局職員名簿に山口(岡村)の名はないので、臨時雇いかもしれない。

 山口は、清洲橋、八重洲橋、数寄屋橋、浜離宮南門橋、八重洲橋等のデザインにたずさわるが、仕事内容は橋のパースを描いたり、親柱、欄干、照明器具等のデザインであったようで、竹村新太郎の話では、創宇社仲間の渡刈雄や野口巌たちも手伝ったという。

 東京大学所蔵の八重洲橋設計図の青図に、当時の山口の姓である岡村のサインがある。山田守デザインの聖橋のコンテによるパースのコピーがRIAにあるが、明らかに山口の手になるものであり、他にもコンテや鉛筆の山口らしいパースもある。この中の豊海橋(日本橋川)が後の黒部第二発電所の橋に酷似している。

 山口は後に回想して、長谷川尭に語っている(『建築を巡る回想と思索』聞き手』長谷川尭1976年新建築社)。

「(初任給を)私は150円をもらいました。::東京、横浜の地図に全部しるしがつけてある。たいへんな数なんです。それで私のアシスタントを、私より年上でございましたが美術学校の人を2人、逓信省から1人といぅふうに集めまして、デザインばかりでなくて構造も知らなければならないというので、橋の勉強をいたしました。いま東大土木の名誉教授で福田武雄という先生がおりますが、一緒に勉強させてもらいました。いろんな橋をやりました。いま目ぼしいのは清洲橋だけでございます。それだけが残って、あとはもう尾羽打ち枯らして、風雪に耐えずはな欠けになっております。横浜へ行きますと、ときどきなつかしいのがあります。一番真剣になったのはやはり、なくなりました数寄屋橋と、それから清洲橋です。それから、いまの八重洲ロの東京駅がずっと掘割りになっておりましたですね、あそこに八重洲橋というのがありました。これはイタリアのボンテ・ヴェッキオのスタイルをとりましてやりました。これもこわされちゃいました。もう一つは、お話しました逓信省から浜離宮へ入るところに、ロマネスク風の橋がいま残っております。あれが一番最後だと思います」

 浜離宮正門橋と清洲橋の現地で、編者は山口から直接に話を聞いたことがあるが(1976)、前者は石の欄干手すり上部のカーブについて、後者は橋桁の見つけを薄くすることに、それぞれ腐心したとのことだった。


●兄事のこと  語り手:山口文象  聞き手:長谷川尭

     (『建築を巡る回想と思索』聞き手』長谷川尭1976年新建築社より引用)

長谷川-一方、震災後の東京で山口先生は橋のデザインを随分なさっています。これは内務省に東京復興局というのがつくられ、そこの揺梁課で嘱託技師をなさっていたときの仕事です。当時はかなり忙しかったようですね。

山口-逓信省におりまして、いまサンケイ新聞のそぼに逓信博物館がありますね。あそこに逓信省の営繕諌が全部移りましたんですが、そのときに神田橋の、いま総合庁舎があり、国税庁がありますが、あそこに木造でバラックができまして、あそこが内務省所属の東京復興局の本部になっていたんです。それで、東京と横浜の橋が全部落っこってしまったものですから復興しなければならんというので、東大の田中豊先生といってブリッジのオーソリティの先生が大将になって、橋梁課ができました。その田中先生が内務省へ話に来まして、逓信省にはわりあいに優秀な建築家がいるらしい。だれかデザインのできる人をトレードしてくれないか」と申し込んでまいりました。それじゃ山田守が適任だというので山田守を橋梁課の佗うへトレードしようということになったんですが、官制では逓信省の高等官が内務省の高等官にすぐトレードされるということはなかなかむずかしいというので、山田先生は嘱託のかたちで橋梁課のほうへ行かれたんです。行って二~三日たってから私のところへ参りまして「山口君、たいへんだよ、橋が何百ってあるのをオレ引き受けちゃって、どうしていいかわからないんだ」というので、「そう、たいへんですねェ」なんて笑い話をしていたんです。ところが、山田守先生はもうそれを全部引き受けるつもりは初めからないんですね。初めっから私をやろうと思っていたんです。それで二~三日たつと、私に今度は復興局から呼び出しがありました。判任官というのはわりあいに簡単にトレードされますから、それで行ったところが、田中先生が「ぜひ来てもらいたい」というわけなんです。私は建築を捨てるわけにいかないし橋もやりたい、それじゃ手伝ってくれというので嘱託になりました。いまのプロ野球ではありませんけれども、トレードマネーは相当高かったんです。東京帝大の人の初任給が七十五円だったのです。いま東大はどのぐらいでしょうか?

長谷川-知りません-笑い。

山口-早稲田はどのくらいですか。その初任給の倍で、私は百五十円をもらいました。それが二十三歳のときです。それで復興局へ行きましたら、東京、横浜の地図に全部しるしがつけてある。たいへんな数なんです。それで私のアシスタントを、私より年上でございましたが美術学校の人を二人、逓信省から一人といぅふうに集めまして、デザインばかりでなくて構造も知らなければならないというので、橋の勉強をいたしました。いま東大土木の名誉教授で福田武雄という先生がおりますが、一緒に勉強させてもらいました。いろんな橋をやりました。いま目ぽしいのは清洲橋でだけでございます。それだけが残って、あとはもう尾羽打ち枯らして、風雪に耐えずはな欠けになっております。横浜へ行きますと、ときどきなつかしいのがあります。一週間に何十とやりました。これは私の家にもスケッチがございますが、土木の連中が「きェうは横浜の港のほうをやっちゃおうか」 「よし」ってわけでグーツと車で見てきてバタッバタッとスケッチをやる。そうすると土木のほうからクレームがあって、こんなのできやせん、それじゃこうしようとかああしようとか、両方でディスカッションをして決めていくのです。そんなわけで随分やりました。でも、一番真剣になったのはやはり、なくなりました数寄屋橋と、それから清洲橋です。それから、いまの八重洲口の東京駅がずっと掘割りになっておりましたですね、あそこに八重洲橋というのがありました。これはイタリアのボンテ・ヴェッキオのスタイルをとりましてやりました。これもこわされちゃいました。もう一つは、さっきお話ししました逓信省から浜離宮へ入るところに、ロマネスク風の橋がいま残っております。あれが一番最後だと思いますが、あれは橋梁課長の田中さんが「今度はモダンでなくて、あそこは離宮なんだからとにかく様式的なものをやってくれ」というのでやむを得ずやりました。ところが、それがわりあいにうまく残っているんですね。清洲橋をやるときにはたいへん抵抗がありました。ドイツのケルンのサスペンション・ブリッジができたばかりで、こいつのまねになるから困るというような話もありました。しかしやってみると、ケルンと隅田川の清洲橋とのいろんな立地条件が違うわけです。東京のほうは地震がある、向こうはない。それからケルンのライン川の入口のところの風の方向、下から吹き上げる力、そういうものと隅田川の持ち上げられ、構振れする条件が全然違う。そんなことで、大体似ているようなサスペンション・ブリッジですが、橋脚のほうと橋床とのコネクションは、よく見ると全然違っております。それは構造上、風の方向など、いろんな、ことがあります。あのサスペンション・ブリッジで一番警戒しなければならないのは、いまの関門の橋と同じように吹き上げられてきた場合に、非常に弱い。床が上がったりでこぽこする。それをそうならないようにしなければならないというような、非常に微妙なところをいろいろ勉強させられました。


●山口文象と橋梁デザイン  
河東義之

  (『建築家山口文象人と作品 岡村蚊象と創宇社の時代』1982より)

 この年,つまり岡村が初めて分離派建築会の展覧会に参加した大正13年,彼は逓信省を退職して復興局土木部橋梁課に移った.復興局が内務省に設置されたのは大正13年2月,橋梁課は,大震災で被害を受けた東京・横浜の橋梁150余の復興が職務であった.

 もちろん,耐震・耐火が第一に考慮されたが,「復興帝都に相応はしからしめる為には意匠,形式,照明等も等閑に附すべきでない」(注23)との見地から建築家の協力が求められ,6月に逓信省の山田守が復興局土木部嘱託技師に任命された.岡村が復興局で数多くの橋梁設計に携わることになったのは,この山田の推挙によるものであった.

 彼の建築家としての最初の仕事が,「芸術味豊かな美しい東京市を建築」すべき橋梁の復興であったことは,非常に印象的である.しかもそれは,建築物の設計ではなく,橋梁に形を与えることであった.彼が手掛けた東京,横浜の橋梁は,かなりの数に登ったという.

「一番真剣になったのほやはり,なくなりました数寄屋橋と,それから清洲橋です.それから,いまの八重洲ロの東京駅がずっと掘割りになっておりましたですね,あそこに八重洲橋というのがありました.これほイタリアのボンテ・ヴェッキオのスタイルをとりましてやりました.これもこわされちゃいました.もう一つは,お話しました逓信省から浜離宮へ入るところに,ロマネスク風の橋がいま残っております.あれが一番最後だと思います」  (『建築をめぐる回想と思索』)

 特に数寄屋橋は,その模型が分離派建築会第5回展に出品され,内務省復興局で描いた橋のパースは自他ともに許す代表作であった.鋼橋と異なり,数寄屋橋はどちらかといえは小規模な鉄筋コンクリートの橋梁であった.そこに,彼の造形意欲を十分に発揮する余地があったのだろう.会員の矢田茂(注24)が「驚ろく可き表現のものとなるでせう」(注25)と紹介したように,それは彼のデビュー作にふさわしい造形であった.橋梁課での実績によって,彼は日本電力の庄川ダムのデザインにも携わることになる.それほ橋梁課長であった田中豊(注26)の紹介によるものといわれる.これら土木工事における造形的デザインの経験は,彼にとって大きな自信になったことであろう.それは同時に,新しい造形の追求へと,彼の意欲を掻き立てることになった.

●土木学会展覧会・2013/11/23
 山口文象90年前の橋の設計図:新宿地下広場で土木学会百年記念展覧会
 土木学会百周年記念展覧会で、山口文象が橋とダムのデザインに関与したとして、顔写真つきで登場していた。

●横浜大岡川「都橋」図面発見・2018/10/11
山口文象作品追跡】横浜震災復興橋梁「都橋」は山口文象デザインと判明
 横浜都心を流れる大岡川にかかる都橋は、関東大震災復興橋梁で内務省復興局が施工した。その竣功図面が出てきたが、その高欄、燈柱、ランプの図面に「設計者岡村」あるいは「岡村瀧造」とある。山口の当時の戸籍名は「岡村瀧藏」だった。


●写真、図面、画像類

●都橋(1927年)竣功図の岡村のサイン


 ●八重洲橋設計図(岡村のサインがある)1924 


 ●浜離宮南門橋(1977年5月4日、山口文象はこの橋を訪ねた)


●数寄屋橋と朝日新聞社 左は日本劇場
  (カラー写真は映画「スパイゾルゲ」のコンピューターグラフィックによる映像を引用)


 ●清洲橋と蔵前橋の復興局当時の山口文象によるパース 


●聖橋の透視図(設計当時の山口文象画)、設計は山田守


 ●蔵前橋、豊海橋、駒形橋の透視図(設計当時の山口文象画)



●豊海橋  成瀬勝武

 永代橋の上流寄りに豊海橋があった。日本橋川の河口にある運河橋であるが、永代橋の新鮮な巨容の傍らにあって、トラス橋とするとコントラストが悪く、そこで私はヒィーレンデル形式を選んで、その形式を加えた比較設計の透視図を数葉、岡村蚊象氏に描いてもらい田中課長にお目にかけた。
 これで良いということになってヒィーレンデル形式に決まったが、しかし不静定次数が10以上もある構造なので誰がその応力を解くかというときに(大正14年の春)、新卒業の福田武雄氏が入局されたので、その設計と応力計算を福田氏にお願いすることになった。溌剌たる若い技術家が縦横にその腕を振るえる時代であったのだ。」
   (土木技術25巻4号「土木技術家の回想(その4) 昭和45年3月 P-127)

注:豊海橋の構造計画を担当した復興局土木部橋梁課課長であった成瀬勝武は、この橋の形式選定について、このように書いている。

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