1930ヨーロッパ遊学

1930-32年 ヨーロッパ遊学

・訪問場所 ロシア、ドイツ、イタリア、オーストリア、フランス

・時  期 1930年12月~1932年7月

・関連資料、記事


●山口文象のヨーロッパ  伊達美徳
          (「新編山口文象人と作品」2003より抜粋引用)

  1931年(昭和6)、29歳の山口文象は真冬1月のシベリアを抜けて、ヨーロッパに至った。山口の渡欧目的は、公式には黒部第二発電所小屋ノ平ダムに関する調査、個人的な目的は、ワルター・グロピウスの下への留学である。
 実はもうひとつ、秘密の役目として左翼活動関係の連絡があったという。それについて45年後、もう時効だからと山口は重い口を開いた(「北鎌倉でのインタビュー」(1976年12月11日録音テープより)
「シベリアを通って入っていってね。ドイツ共産党への秘密裏のなにかを持っていたのだよ。ドイツには中心の日本人グループが7、8人おってね、そこへの連絡ですよ。シベリアに行ったんだけどね、汽車が着いたらあそこに待っていたんだよ、ソビエトは24時間ででていかなければならないのだよ。そのとき待っているのがいてね、白ロシアのほうウクライナに入っていった。ずーっと南に行ったのだね。ウクライナにまた日本人が2人いて、これが役者としては下積みだったけど、先日なくなった人だけど、一緒に行ってくれた。そこで連絡をとってベルリンにはいったのです。
・・・ベルリンに行ってから1年くらい経ってから、こんどはレニングラードの北のほうにはいったけど、そういうときの入りかたとか、パスポートの取り方とか大変なものだね。連絡の内容は大体は知っていたがね、資金の問題ですよ、日本共産党のね。あの当時はドイツの共産党が世界で一番強かった。その関係で、資金をどういうふうにして送るかということでしたよ。
……その当時のベルリンの日本人グループのリーダーは藤森成吉で、その下に佐野碩、勝本精一郎とか、三枝博音とか、島崎蓊助とかね、そういうグループ7、8人に連絡してね、それからドイツの共産党から何万円くるとかね、その資金はトルコからイスラエルとかシルクロードみたいなところを通って香港から日本に来る、そういったことです。かなり危ない命がけです。
……ベルリングループの名は日本のゲシュタポに名前がわかっていた。持ってきた日記や写真はほとんど没収ですよ。後から荷物で送ってきたものは、いま私のところにあるいくらかの証拠品です。
……留学と任務とは半分づつ。わたしの向こうへ行くときの旅費は750円。朝鮮からずーっと三等で大変な貧乏旅行ですよ」

  この話のベルリンの日本人グループとは、「ベルリン反帝グループ」とよばれ、日本の左翼と連絡し、モスクワの片山潜などとも結んで反帝反ナチ活動を行ったが、山口の名は別の資料(ワイマール末期ドイツの日本人:ベルリン反帝グループ関係者一覧(2000年1月1日現在、加藤哲郎作成)でも確認されている 。

●山口文象の洋行をめぐって  佐々木宏
(「建築家としての山口文象」(『建築家山口文象人と作品』1982)より)
 
 1930年(昭和5年),その年の暮れもおしつまった12月に,山口文象は日本を離れてヨーロッパヘ向けて旅立った.28歳のときである.
 彼にとってこの洋行は,生涯のもっとも大きな転機であり,また日本の社会において建築家として認められてゆくための重要な経歴となるものだった.
 若い建築家の洋行そのものほ当時としてけっして特別なことでほなかった.明治以降かなり多くの建築家が欧米へ渡航しているし,また当時もすでに何人かが出かけている最中であり,山口の友人の前川国男は,ル・コルビュジュの許での2年間の修業を終えて,この年の春に帰国したばかりであった.したがって一般的にはなんら珍しいことではなかった。
 しかし,山口の洋行がとくに注目されるのは,彼の場合,他の建築家のように恵まれた境遇の出身ではなく,実行に移すには多くの困難を克服しなけれはならなかったからである.
 当時,建築家として海外渡航することができた人びとは,そのほとんどが経済的に恵まれた背景をもち,官庁や大学に勤務していて視察出張や留学を命じられた者か,自費洋行の可能な富裕階級の出身者たちはかりであった.
 山口のように,学歴もなく,社会的地位も低く,資産の乏しい若い建築家が,勉学のために洋行するということは,当時の日本においては例外中の例外ともいうべきことだった.
 山口が建築家を志した頃,日本では欧米の新しい建築の動向がかなり詳しく紹介されていた.彼が師事した先輩たちほ,熱心にそれらを吸収しようと努力した.そして,日本においても新しい建築運動を起そうというグループまで現われるようになった.山口自身もやがてそのような運動に参加するようになった.
 東大出身のメンバーによって結成された分離派建築会の会員になったが,一方で製図工仲間とともに創宇社建築会を結成して,新しい建築デザインの修得と同時に,建築の社会的意味をも追求する姿勢をとった.彼の新しい建築への関心は,ただたんに歴史的に新しい造形の創造だけではなく,その社会的存在の新しい理念の確立とをいかにして両立させるかということであった.
 ところがその頃,若い建築家が次々と欧米へ出かけて行った.分離派建築会の先輩の堀口捨己や石本喜久治なども欧米へ向った.やがて山口は帰朝した石本の許で仕事をするようになった.多くの若い世代ほ欧米の新しい建築デザインに熱い憧憬を抱いていて,洋行の機会に恵まれた老に対しては強い羨望を覚えていたが,山口の場合,身近にそのような先輩がいたことで,大きな刺戟を受けて他の誰よりもそのような念が大きかった.
 彼は自分の境遇から考えて,洋行などは見果てぬ夢のごとく思っては見たものの,一方で,もしも自分が欧米へ行くことができたらどこへ,誰のところへという想定を何度も試みた.新しい帰朝者たちの見聞は彼にとってほとんど不満であった.
 多くの国々を廻り,多くの人びとと会い,そしてさまざまなデザインを伝達紹介するといった先輩たちの行動は,当時の日本の若者達の使命感としてはやむを得なかったものの,山口はこれからの建築はそのような目新しい造形の移入だけでは真に新しい創造とはいえないと考えていた.山口はもしも自分が師事するならは誰を選ぶかということをいくたびも思案し,その前提に立って欧米の建築家たちの思想と行動を観察することにした.
 欧米の新しい動向の紹介は一見華々しいようであったが,その内容においては限界があり,山口はある種のもどかしさを感じたので,自ら欧米の思想家や建築家の原文を読もうと決心して,外国語の学習をひそかに始めた.
 中学校へも行っていない山口にとって,仕事のあい問に外国語を学習するということは容易なことではなかった.彼がとくに集中したのはドイツ語であった.ドイツの新しい建築の動向が日本でもっとも注目されていたのでそれは当然であっただろうし,また第一次大戦によってドイツ帝国が崩壊し政治的に新しいワイマール体制になっていたという点と,主要な社会主義的文献がマルクスの著作を始めとしてドイツ語によるものが多かったというのもその要因であった.
 外国へ行けたらいいなという憧憬が,いつのまにか,もしも外国へ行けたらどこへ行くかという選択になって彼自身をドイツ語の学習に躯り立てた.彼が焦点を絞ったのはグロピウスであった.ワイマールでのバウハウスの活動については,それを日本に紹介した一人である先輩の石本から身近にいて詳しく聞かされていた.
 山口がグロピウスに深い関心を寄せるようになったのは,ただたんに新しいデザインのメッカであるバウハウスの創設者ということだけではなく,新しい政治体制の中で,新しいデザインの存在理由を追求している,いわば思想と行動の実践を試みる先駆者として惹かれたからである.
 もしも,山口が数年早くドイツへ行くことができたとしたら,おそらくグロピウスが校長だったバウハウスへ入学していたかもしれない.しかし,彼がドイツへ行った時には,バウハウスの校長はミース・ファン・デァ・ローエであった.山脇厳・道子夫妻は日本人としては数少ないバウハウス出身者であるが,バウハウスの入学時に二代目の校長のハンネス・マイヤーが辞任して,ミースが三代日の校長となったという変革に遭遇している.
 その点,山口はグロピウス個人に関心を寄せていたらしく,グロピウスが去った後のバウウスにはなんら未練をもっていなかった.彼があくまで師事しようと目標を定めたのはグロピウスであってバウハウスではなかった.
 このようにして心の中に抱いた願望を実現させるには,当時の山口文象としては多くの困難があった。まず資金的な面である。このもっとも重要な点について,生前の山口は自ら語ることが少なかったが、彼によれば,以前から日本電力の庄川ダムの設計などに参加していた関係から,黒部川第二発電所の設計も依頼されて,一部前金として設計料をもらったので,それを洋行費用に当てることにしたということである。
 またあるひとの説によれは,山口が関係していた社会主義運動のための政治資金の調達の使命も兼ねて渡航するので,同志からの資金カンパも行なわれたという.
 さらに問題となるのはグロピウスとのコンタクトである。山口自身グロピウス宛に手紙を書いたと語ったことがあるが、一方で1930年の6月に来日したノイトラにもグロピウスへの紹介を依頼したとも伝えられている.
 いよいよ洋行の準備ができた1930年の10月30日,創宇社建築会の主催による「第2回新建築思潮講演会」が東京で開かれ,それは「同人岡村蚊象渡欧記念」と銘打つものだった(ちなみに当時山ロは岡村姓を名乗っていた)。
 今日から見れは,なんと大袈裟なことをしたものだと思われるが,製図工仲間を同志として発足した創宇社のメンバーとしては初めての渡欧老であり,また社会主義的な思想を基盤とした建築運動の代表選手としての山口をプロパガンダする絶好の機会でもあったのである.
 講演老の中で創宇社の同人は山口ただ1人であり,その演題は「新興建築家の実践とは-合理主義反省の要望のつづき」であったが,他に講演者として,川喜田煉七郎,前川国男,新居格,白鳥義三郎,滝沢真弓といった人びとが名をつらねていた.このような講演会が特別に開かれたということは,官庁の役人や大学教授や富裕階級の子弟ではない1人の若い建築家の渡欧が,いかに華々しい壮挙として見なされていたかを物語るものであろう.
 この年の12月に日本を発ってシベリア鉄道経由でヨーロッパヘ向った山口が,ベルリンのグロピウス事務所で仕事をするようになるのは,翌1931年7月頃からのようである.彼の生前,何度か訊ねたところ,ベルリンへ行く前に,ソヴェトでさまざまな用事があり,一時は白ロシアにいて向うの組織と連絡をとったこともあるが,うまくいかなくて,それからベルリンヘ着いた,というような話をして,具体的な行動の内容や日付については自ら明確にするのを避けるのがっねだった(この点については今後,山口についての研究者や伝記作成者によって明らかにされることを期待したい)。
 それでいて,ある時,山口はわたくしに国崎定洞について知っているかといい,川上武の著作でしか知らないと答えると,国崎は立派な人物だったと感慨深そうに昔の回想にふけることもあった。東大での教職のポストを捨てて国際社会主義運動に挺身した医学者の国崎について,山口が亡くなるまで関心を抱いていたということは,建築家としては精いっばいの生き方を貰いてきたが,しかし一方では自らも国際社会主義運動に没頭する機会があったにもかかわらず,その路線を進むことができなかったことに対する屈折した追憶が時には去来したからであろう.
 ドイツへ行っても山口は社会主義運動とかなり深い関係をもっていたらしい。日本での山口の属していたグループと,ドイツの社会主義者たちのグループとの間に連絡があって,彼はベルリンにおいて現地の運動に参加したらしい.当時,ドイツに滞在していた留学生を中心とする日本人の中に,ドイツ共産党に参加した人びとが少なくなかったということが,これまでに断片的に伝えられてきている.しかし,その具体的な全貌はかならずしも明らかにされていない.異国での若気の至りということなのか,ドイツにおいて熱心に政治運動に加わった経験があるにもかかわらず,日本へ帰国してからは一切そのことに触れたがらない人びとがいるのは確かである.自己保身としては賢明な生き方であるにはちがいないが,山口は生前,そのような人びとを批判していた.具体的な名前をロにするのも嫌だといわんはかりで沈黙するのだった.
 山口の語るところによれは,彼はグロピウス事務所で給料をもらっていたということである.製図工として長い修練を経て,さらに石本の片腕としての設計活動があったので,山口の実力はドイツでも認められたからである.そして,一方で彼のベルリンでの生活は,グロピウス事務所での仕事の他に,工科大学で学んだり,政治運動もしていたというのである.
 彼によれは,グロピウスは日本で想像していたように社会主義体制に対してはシンパのような立場をもっていたようで,共産党には接近しなかったが,左翼運動には深い理解をもっていたので,山口のような生活が容認されたのだという.グロピウスの政治的な立場や,社会主義思想との関連については,これまでかならずしも十分に解明されているとは思われないが,山口のグロピウス事務所時代のことから推量すると,バウハウスの校長の解任以来,かなりコミットしていたようにも考えられる.この問題もまた一つの大きな課題であろう.
 山口がグロピウス事務所で関係した主な仕事は,カールスルーエのジードルングの設計とソヴェト・パレスの競技設計の図面作成だったようである.前者はジーメンス・シュタットのジードルングほど知られていないが,後者はグロピウスの作品の中でも重要なデザインの一つである。
 とくにこの競技設計は国際的なものであり,ル・コルビュジェやグロピウスを含めた著名な外国の建築家が指名された他に,ソヴェトの建築家が応募したものであった.結果はソヴェトのヨーファンの案が1位入選となったが,落選した案の中にいくつもの注目すべきデザインが見出されるという点で重要な意義をもっている.ル・コルビュジェの案はあまりに有名であるが,グロピウスの案もまた多くの点でいまなお興味深いデザインである.
 このような歴史的なデザインの創出の現場に参加したということは,その後も生涯にわたって山口にとっては大きな誇りと自信になった.その意味では,前川国男がル・コルビュジェの許でセントロソユースの設計に参加したのと類似した体験だったかもしれない.
 山口によれば,ソヴェト・パレスの設計をまとめたのはグロピウス事務所のチーフ・ドラフトマンとして有能だったフィッガーだったということである.グロピウスはかつてアドルフ・マイヤーを協同設計者としていたことがあったので,フィッガーとの関係を訊ねたところ,グロピウスは自ら鉛筆を持って図面を引くといったタイブの建築家ではなかったと山口は証言している.しかし,設計チーム全体をまとめて,自分の意図したものを創出する手腕はすぐれていたとのことだった.
 山口はベルリン時代にこのようなグロピウスのデザインの進め方を知っていたからであろう,第二次大戦後にアメリカでグロピウスが若い建築家たちとの協同設計チームとしてTAC(The Architects Col-1aborative)を結成したのを見倣って,自らも若い建築家たちとRIA(The Research Institute of Architecture)を組織したものと推察される.
 最近は,建築の設計活動が法人組織によって推進される動向が大きくなっているが,そのような傾向の先駆として設計組織を結成したというのは,グロピウスの卓越した予見だったかもしれない.後に巨匠たちとよばれる近代建築運動の担い手の中で,このような次の時代に対する先見性をもっていたのはグロピウスだけだったようである.
 山口によれば,ドイツにいる間,カールスルーエにも3ヶ月間いたという.この都市に建つシードルソグの現場の仕事だけではなく,日本を発つ前から手がけていた黒部川第二発電所のダムのデザインの仕上げを,ドイツ滞在中に,図面を送ったり送られたりして作業を進めていたとのことである.
「その黒部第二号ダムの水が落ちてくる一番おしまいのところで,水がザァーつと流れると川底を掘ってしまって,ダムを危なくします.それを掘られないようにするには,水理学的にそこにひとつのなにかをコンクリートでつくらねはならない.それを日本で一生懸命実験したのですが,うまくいかない.それでカールスルーエにレーボックというプロフェッサーがいて,この人は水力学のオーソリティーで,水が流れてきて掘られないようにする壁のパテントをもっていた.それをぜひ使いたいと,私がレーボックに交渉に行ったのですが,パテント料が折り合わず,それに似たものをつくっていま黒部にあります.それで(工科大学の)土木の実験室にずっとおりました」と山口は語っている.
 ドイツまで仕事を持参して行ったというのは,山口がいかに精力的であったかを物語るものであるし,また一方で彼がそのような仕事に対する責任上,国際社会主義運動の専従者となることに踏み切れなかったわけである.
 またカールスルーエといえば,山口は生前にRIAの設計した朝鮮大学が『建築年鑑』賞を受けたときに,チームを代表して挨拶をのべた中で,このような設計による受賞というのは二度目の経験であり,最初はカールスルーエのジードルソグの競技設計案であるといったことがある.そのジードルソグがグロピウス事務所のものなのか,別の彼自身の案なのかは確かめていない.
 山口のドイツ滞在においてもう一つの重要な面は,当時ドイツに在留していた日本人の中でとくに学者や芸術家たちと交流して多くの知己を得たことである.すでに日本において彼は上昇志向として精力的にさまざまな分野の人びととの交流によって,自分自身への刺戟を続けていたが,ドイツという外国での交際は,いわはエリート同志のものだった.このドイツにおける山口の人脈の拡大ほ,帰国後の彼の生涯にわたって貴重なものとなった.
 またさらにドイツ以外の国々への旅行も彼の見聞と視野を拡大するのに役立った.フランスのパリでは坂倉準三をル・コルビュジェのアトリエに訪ね,彼の紹介でル・コルビュジェにも会っている.イタリアやオーストリアへも旅行し,古典建築やブリューゲルの絵画に感動した回想を聞かされると,山口のヨーロッパ体験はかなり充実したものだったことが分ってくる.
 意外だったのは日本への帰国の途中に立寄ったロンドンで見た国会議事堂に対する素直な高い評価である.この話を聞いて,新しいデザインの修得に外国へ出かけたにもかかわらず,硬直した姿勢はかりではなく,かなりナイーヴな感受性をも持ち合せていたことが知らされる.
 彼が日本へ帰国したのは1932年(昭和7年)7月だった.やがて完全にヒトラー政権下となるドイツを脱出するようにして帰国した山口は,最初に船が入港した神戸で官憲の取り調べを受けた.もちろん政治思想犯容疑である.当時洋行帰りの若い建築家がこのように取り扱われたのは山口をおいて他に誰もいないだろう.
 山口の洋行は出発から帰国まで,ほぼ1年8ヶ月ほどである.その期間中に彼は実にさまざまな体験をした.彼自身,大きく成長し新たな自信を確立していた.彼を迎えた人びとも彼への期待が果され,彼の飛躍した活躍を望んでいたのだった.山口はそれらに見事に応えた活動を開始するのである.
 山口の洋行は彼自身の生涯において重要な意味をもつはかりでなく,その後に彼が展開した建築の創作活動から見て,日本の近代建築史の上でも重要な意義をもっていると見なされよう.

渡航パスポートの一部

ベルリンにてプロレタリア建築展に出品

●山口文象の滞欧中の手帳(伊達美徳編)

 山口文象の滞欧時の自筆記録は、小さな日記用の手帳が3冊(「NOTIZ CALENDER」2冊と「Notes」1冊)と大学ノートが2冊ある。大学ノートのうちの1冊はドイツ語の練習用(女性から習っていたらしい)、もう一冊は手紙の下書きや演説草稿らしきものがいくつか日本語やドイツ語で書いてある。以下に小さな手帳から、山口文象が付き合っていた人たちや、彼の動静を知ることができる部分を抜粋した。

・「NOTIZ CALENDER」1931,同1932に記載の人名
(編注:出現順で記載したので何回も出てくる名もある。住所を記載している場合もあれば、手紙を書いたか貰ったかのメモとしての姓のみの記述が多い。カッコ内は住所記入ある場合の地名のみを記した。その他は名のみの場合)

中条百合子(東京),Rudolf Rucker,Fritz Rumpt,Heisenburger(Berlin),J.kawahara(Berlin),矢代幸雄(東京),Chisaburo Yamamada(Berlin),Hanns Dustmann(Berlin),Freulein m-h-Hirsch(Berlin),Herrn Kumomura,K Wtanabe(Berlin),Ernst Rawohlt(Berlin),Tokujirogawa,S.katsumoto,I.Yamawaki,Heinrich L.Dietz,Prof.th.Rehbock,Dr.ing.alfred,Fischer,V.Dufais,S.Furuya,Tokijiro Ogawa,Seki Sand,H.Saigusa,C.Fieger,T.Kimura(大阪),Otto A.Sandel,旭正秀(青山),徳永直(世田谷),Albert hadda, Rudolf Gotz(Berlin),T.satake(London),Taniguchi,Takemura,Fukunaka,Murano,
Hiroko,Togari,Sasamoto,K.Sato,Tsuchiura,Shiratori,E.Yamaguchi,T.takagi,Sousha,S.yamaguchi,
Fujiko,Fumiko,FumioNose,Ogawa,Imaizumi,Takizawa,Sekiguchi,Yamakoshi,Yasui,Kimura,Ishii,K.Kataoka, Arishima,Sakasaki,Yamada,Takahashi,Takeuchi,Umeda,Hujiwara,Rudolf Rucker(Berlin), B.heumann,山口順三(大井町),Dr.Fritz Schilt(Berlin),Gideon,Rudolf Muller,神澤赳夫(駒込),V. Dufais,S.Katsumoto,武富,関口,石本,高橋,喜多,仲田,柳下,安井,高木,坂倉順三(paris),B.Herrman(Berlin),関口泰(鎌倉),木村(大阪),Yamakoshi,Maekawa,Kawakita,Hiroki,S.Katzumoto(Berlin),
I.Yamawaki(Berlin),Heinrich L Dietz(Berlin,Prof.th.Rehbock(Karlsruhe),V.Dufais(Munchen),
S.Furuya(Berlin),Seki Sano(Berlin),H.Saigusa(Berlin),E.Fieger(Berlin),T.Kimura(大阪),
Otto A.Sandel(Berlin),徳永直(東京),旭正秀(東京),T.Kobayashi,Albert Hadda, Alexander Schawinsky(Magdeburg),S.Nakamura(Berlin),出納陽一(北海道),Dr.Grossman Berlin),G.Shiratori,T.Furuhashi,Hideshiko Nose,K.Nakada,M.Ebihara,Taketomi,Ishimoto,Sekine,Yata,Takizawa,Takenaka,H.Nose,Murano,Uchida,

・「NOTIZ CALENDER」1931にある動静の記述
(編注:5月以前は手帳には住所録ばかりで動静らしき記述はほとんどない)

5月30日 Von heute in Wien ein Kongress der Musik/In der kunstbibriotek geht
5月31日 Spree Wald geht
6月4日  Ich muss Herr Ueno in Japanische institute besuchen
6月5日  Mit Herr Watanabe in Bauausstellung gehen
6月7日  Morgen mit Herr Watanabe nach Chorinchen abfahren.
(編注:外国人のためのドイツ語学校の1931年6月8日から8月1日まで、9~7月9日まで、7月30日~8月19日まで、9月7日~10月31日までのそれぞれのスケジュールの記述)
6月10日 Ich soll bei Maria Hirsch besuchen.
6月11日 Ich soll auch heute bei Freilein Maria Hirsch besuchen.
6月21日 habe Ich heute nach Potzdam gegangenn.
7月4日  Bauaussstellung 2uhr
7月6日  Gropius besucht
7月7日  heute habe ich wieder Herrn Gropus besucht
7月12日 Yashiro abfahren
7月13日 3 Uhr Herrn Gropius besuchen
7月25日  Wenn Yamada besuche um 4uhr
7月26日  Herr Takada besuchter mich
10月13日 um 8uhr in den Schlarattia = sahlen,Enkeplatz 4.Hannes Meyer
10月26日 in Karlsruhe angekommen
10月27日 in teknischen Hochschule Prof.Rehbock gesehen
10月29日 nach Baden
(編注:この数日間は、毎日の旅費の計算らしい数字が並ぶ)
11月1日 mit Hernn Fischer habe ich die Darmal-siedlung gesehen
11月2日  nach Berlin  heute Heidelberg gewesen
12月29日 nach Oberwiesenthal
 
・「NOTIZ CALENDER」1932にある動静の記述
1月17日 Tapeten Buch von corbusier fur Salburd
2月21日~23日(編注:フランス語会話のメモあり)
2月25日(編注:坂倉順三のパリの住所が記載)
(編注:3~4月は空白)
5月17日 16.44=abfahr Bodenbach nach Prag 20.50 in Prag
5月18日 22.50 nach Wien
5月21日  im Wien nach Venedig ab(22.15)
5月22日 in Venedig
5月23日  in Venedig 13.40 in Frorenz Brodau(suppe)
5月24日  in Frorenz
5月25日  in Frorenz nach Genua
5月26日  in Genua nach Milano
5月27日  in Milano nach Muunchen
5月28日  in Munchen
5月29日  in Munchen nach Frankfurt
5月30日  in Frankfurt
5月31日  in Frankhurt nach Berlin
6月13日  bis 18 ab London nach Paris 22.3 nach Holland 28. nach Berlin
6月14~15日 Apfhalt in Berlin 1. Woche, Leipzig, Weimar, Frankhurt, Meinz um Reisen dann Paris, 7,8 ab marsell. (Hakonemaru)
6月18日 ab Berlin 21.59 von Bhf.Friedrich str.
6月19日 14.05 an Paris。soll heute Corbusier besuchen werden
6月21日(編注:パリからマルセイユへの列車の時刻表を書き写してある)
6月23日 an Mar. 10.m
6月25日 Neapel
6月28日 an u.ab Protseid
6月29日 an u.ab Suezu
7月9日  an Colombo
7月14日 an Singapol
7月17日 ab Hongkong
7月21日 an ab Shanghai
7月24日 an Kobe
7月26日 ab Kobe p.m.
7月29日 an Yokohama p.m.

・「Notes」の1932年5月の記述(抜粋)
(編注:原文のまま。■は判読不能。手帳にはこのほかウィーンでの美術館で見た多くの作品に関するメモが連ねてある)

17.mai Dresden 
Dresdenで偶然高田君と会ふ。熱いので■■、歩くのが嫌いになる。Zwinger,Arbertium,Gemalde museumと主要なところを済ませた。飯の高いのに驚く。Zwingerは非常に可愛く、なる程Barockの傑作と■■かせる。只、Flugerの腰の辺に少し破端がありはしないかと考へられた。
Albertiumでは、HellekresのGipsをよいと思った。Egyptのmiraに骨が見えた。
Gemalde Museumで気に入ったもの内下記に記してみよう。
Lucas Cranach,Hans Holbein,Jacopo Palma,Titiano Vecelli,Parma Vertio,Antonio Allegri, Raphael Sancio,Giogio de Castelfianco,Sandro Botticeri,Juseppe de Riber
河の水は茶色で濁って重たそうだが、対岸の水泳場には色紙を撒き散らした様に海水着が芝生にねころんだり、泳いだりしてゐる。もう一日泊って泳ぎたい心もずいぶん動いた。首相暗殺を知る。
 
18、mai Prag  
停車場のすぐ前のRoyer Hotelと云ふのに泊った。きたないのに困ったが一晩なので我慢する。カフェで"メニュを見せて下さいと"云うて叱られた。人気の悪いところだ。
大学図書館で、ハンガリーの青年が熱心に案内して下れ、Tech.Hoch.へとつれて行って下れた。Alte-neue Synagoge,Dom.Burgを廻り、Stadionへ行ったが最近何か大会があるらしく、大工事中だった。
Deutsch Sprechをやると余りよい顔をしない。駅夫もオーパーも不親切な奴が多い。飯の高いのにまずいのに驚く。
an Nakata,J.Yamaguchi,Tokari,Furuhasi/22.50 nach Wien abfahr/Pragの家にはColonedのが非常に多いと感じた。
 
Wien den 19.mai 32 
今朝七時Pragより到着.街に較べてBahnhofのきたない貧弱なことだ.九時から開く筈のLichtenstein museumへ行く。入場券5sには驚く。■はいよいよGaelie。da VinciとBotticelli小さいながらぴりりっとからい。
AlbertinaではRaffal Santi。 Dullerのスケッチ、Botticelliの神曲を見る。Hofburgは時間の関係で見られなかった。Hotelを決め、急そいでSchonbrunnへ行く。途中親切な娘さんに会って道を教へてもらふ。一人旅では人の親切が身に沁みて有難い。熱いのと、労れで少々まいっている。Schlossを一巡する。ほんとうにこんなのが豪じゃと言ふものかも知れない。中でもMilionen Zimmerなるもの、壁 支那のバラの木の寄木張り、金具は凡て十四金だとのこと。Stilはバロック。Gartenの緑は丁度すっかり色づいて並木、立木全体が凡て建築的に形成され、非常に美しい。まだヴェルサイユの宮殿は知らないが、これに何パーセントかを加へたのに過ぎないだらう。
発音がBerlinとは大変違って一寸まごつくことしばし。室はRogarより奇(ママ)麗で眠れそうだ。Hofmannに手紙を書く。
 
Wien 20 mai 32 
朝思わず寝坊。急そいでKunsthistorische Museumへ行く。Tiziano,Tintoletto,Rubens,/Dulerが多い。HolbeinのMaria,Schavone.Ruini.Brugelの作。最も感激す。
Burgtheater参観、これも支配階級が惜し気もなく散財した例の一つ、。"Disraeli"の舞台ケイコ中。今晩が初回らし。Vorksparkでしばらく休み、Domに出掛けたが、バスを間違ってとんでもない処につれて行かれる。おかげでMria am Gestadeを見る。葉書手紙を書く。午前2時就寝。
 
Wien 21.mai 32 
労れきっているので中々おきられない。両替のことで帳場とごてごてし、でもねばってやっと解決。あわててKunst-histrische M.へ行く。昨日見落しMulliroを発見す。Durerが段々好きになる。Velazkezの肖像もよい。
Girolamo da Trevisoとはどんな作家なのだらうか。Reise Buroで時間を聞いたが、Frorenz先はらちあかず。Kunst-geberbe SchuleへHoffmanをたずねたが不在。Parfarは楽天地の活動がないものと思へば間違ひない。公園は廣いが風味がない。カフェで大根をかじり乍らお茶を呑む。まだ発車までは時間が余り過ぎる。どうしたものか。

【資料】グロピウス夫人の手紙
  グロピウス夫人が見た山口文象と山口文象が滞欧した1930~32年頃のベルリンにおける世情とグロピウス事務所のこと 
  
●山口文象講演
 「建築はどうなる―体制に流れる建築家ではなく自律的に考える建築家でありたい」
(「建築家」(1972年夏季号 日本建築家協会)一部抜粋)
 
「わたくしがべルリン大学におりますときは、ちょうど1931年ごろでしたが、世界の建築大博覧会というのがべルリンで大々的に催されましたが、この博覧会はグロピウスが相当采配をふるってまとめたものです。当時私達若い連中だけでべルリンに建築家の団体を作っていたんですが,その連中といろいろ話をしまして、この展覧会はこれからの建築を示唆するのかどうか、もういっぺん考え直そうじゃないか。とにかく,コルビジェ,グロピウス,メンデルゾーンというえらい先生方がやっているんだから間違いはなさそうだけれども,なにかピッタリしないものがあるということで、いろいろ議論をいたしました。
 それでは、われわれそれへの批判的な展覧会をやろうじやないかということで相談がまとまりました。::いろいろ議論をしまして,結局一番わかりいいのはギリシャではないかということで,アテネの町を研究することにいたしました。
……初めに申しました建築大博覧会というのは,図面だとか模型だとか,これからの住宅の生活の方法だとか,住宅のモデルルームや今日的なビルディングのデザインなどが展示され,また華やかなカラフルなブルーノ・タウトのジートルンクの模型なども出ておりましてはなはだ楽しい展覧会でありました。私達の展発会はそういう大きな場所も必要としませんし,費用もありません。::ノイケルン区といってべルリンの,東京でいえば本所・深川のような下町にあたるところです。::みすぼらしい小学校でした。そこの2階が展覧会場でした。図面のひとつもない,それからパースペクティヴもない,模型もない,ぜんぜん入っていっても文字だけの大きなパネルが壁に張ってある,それだけの展覧会です。」

ベルリンで撮ったポートレート

グロピウスのアトリエでスタッフたちと


●山口文象が担当したというソビエトパレスコンペ図面
 (山口文象がグロピウスアトリエから持ち帰った十数枚の紙焼き写真 RIA所収)


●山口文象滞欧ノートの記述
 
「今までに155点の作品が集まった。モスクワからだけで100点以上。国内各地から30、他国から約15点、その内半数以上はDeutschlandから。外国参加建築家達は少し風変りで、その少ない作品は優劣がはなはだしい。続々到着しつつあるが、ソビエト政府からこの懸賞参加を依頼され、大きな期待を持って待っているPoerzig、Urban等の諸作は、未だ到着しない」
 このコンペ応募作の制作方法について、帰国直後の山口は次のように語っている。 (「欧州建築界雑話」(「建築科学」第4号1932年11月)
「全部を一つの単一なマッスに納めるというアイディアの下にスケッチに着手しました。そのグロ氏の指揮の下に事務所のフィガー、ドゥスマンHanns Dusmanそれに私と3人が、個々にスケッチを作ることになりました。そして一週間目にフィーガー8案、ドゥスマン5案、岡村11案、合計24できました。その夜、それらのスケッチを壁に貼り、事務所で働いている連中9人、それにフラウ・グロピウスまで加わってケンケンゴウゴウと討論しました結果、グロ氏の裁断に待って2案が選ばれました。」

●マルセーユから乗った帰国の客船・靖国丸にて

●バウハウスとグロピウス  山口文象  (「建築家」1954年2月)


●山口文象の帰国とグロピウスの亡命 伊達美徳

    (「新編山口文象人と作品」2003年より)
 
 山口文象の滞欧手帳によれば、1932年6月1日から12日まで空欄で、13日から15日の欄の記述はその後の予定らしいが判然としない。
 山口の手帳の記録では、1932年6月18日夜ベルリンのフリードリッヒ通りの駅を発って、19日にパリでコルビジェを訪問し、23日にマルセイユを箱根丸で船出している。なお、手帳では箱根丸だが、実際は当時の日本郵船の運行記録から靖国丸と判明している。
 この帰国の途につく時について、45年の後に山口が佐々木宏を相手に2度も語った劇的な事件の話がある。
 「ヒットラーが政権を取ったのは1933年でしたか、国内の組織をナチとして全部変えてしまいました。いわゆる自由主義者、民主主義者そのような考えの芸術家たちを追放しました。その中には、ブルーノ・タウトがいます。グロピウスももちろん、その筆頭です。
私がベルリンに入る前に、ソビエトとポーランドの国境をこっそりと超えまして、ウクライナのあたりをうろつくことになりました。そのために要注意人物でした。
 わたくしの周辺にも追放された人たちがいました。そうなると24時間以内に出よ、コースもベルギーを通って出て行けということです。グロピウスも私もおおいにあわてまして、ドイツを逃げ出しました。グロピウスが言うには、行く先が問題で、フランスににげてもそのうちにドイツにやられるに違いない、これはドーバーを越えてイギリスに行くしかない、ということになりました。ベルギーを通過するのはまことにグルーミーな風景でしたが、ドーバーを越えました。ロンドンではもちろん大歓迎で、厚遇しました。私は一介の貧乏学生ですので、長くはロンドンにおりませんで、船でマルセイユから帰ってまいりました。地中海では潜水艦が心配でしたが、無事に帰り着きました。グロピウスは十何年か前に日本にやってまいりました。それまで音信不通でお会いしないでおりました。脱出に状況はそういうことで、タウトたちもみなそのような状況でした。」
     (対談「建築をつくる」(山口文象 聞き手:佐々木宏 日本建築家協会 
      1976年10月13日ー文書記録はないが編者が録音テープを所蔵)
「ドーヴァーを渡って桟橋を足で踏んだときはさすがにほっとしました。「24時間以内に国境を出よ」という指令を受けて、グロピウス夫妻と私の3人は、あわててベルギーのあの石炭山の黒々とした沿線を通って、カレーの港に着きました。
 ヒトラーに近い政治行動に出ていた当時の日本ですから、私はあまり歓迎されませんでしたが、ロンドン大学助教授のセラ・レビーが私の世話をしてくれました。私はここに2カ月いまして、生活費が底をつきましたのでロンドンを離れました。グロピウスは後にハーバードに招かれてアメリカへ渡ったのです」
   (対談「近代建築の目撃者」(「近代建築の目撃者」新建築社1977年)(72・12採録)  
 しかし、グロピウス側の各種資料では、1932年にロンドンに渡った記述はみられない。ドイツを去ってイギリスに夫妻が移住するのは、更に2年後の1934年10月とされ、前掲グロピウス夫人書簡にも「Berlin―we left in Sept.1934―」とある。
 迫力ある劇的な話だが、山口がグロピウスに同行したとしてもそれが亡命の旅とは考えにくい。32年の手帳の3~4月が空白だが、この時になにかあったか。

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