宝庵由来記(2) 第1章からのつづき
第2章 夢窓庵の由来
1.関口泰と遺芳庵そして宝庵
「宝庵」には山口文象設計の茶室は「常安軒」と「夢窓庵」の2棟あり、さてどちらから話をはじめようかと考えたのだが、建築主の関口は「夢窓庵」の方から想を起したらしいので、ここでもそこから始める。
関口氏が浄智寺谷戸に居を構えて美しい緑の谷戸を眺めつつ、その風景に奈良の室生寺にある五重塔を建てたいと思い始めた。2年ほどそれを考えていたがとても無理と覚って諦め、次に思いついたのは京都の高台寺にある茶室の遺芳庵を写して作ることだった。京に旅したとき見て気に入ったのである。この小さな草庵茶室ならば経済的にも可能である。
次で湧き上った空想が吉野窓の建築だ。これは前から吉野窓を知ってゐてあれをここへ建てようと思ったのではなくて、義弟の旭谷左右に案内されて京都の茶席を見物してまはってゐる時に、高台寺の中の佐野画伯の家にある「遺芳」の席を見て、これはいいと思った。無論茶道の方からではなくて、私の庭における絵画的効果からの話であるが、二坪か三坪の小さい家に比較してトテッもなく大きい三角形の屋根と、伽藍石を踏まへた大きな丸窓は、それだけで絵だ。それに何よりも、一畳大目の茶室と二畳の水屋は、建築費からいっても、宝生寺の五重塔の如く空想に終らずに実現の可能性をもつし、長く茶室につかはれずに暴風雨に壊されたまま蜘蛛の巣だらけの物置のやうに、庭の隅に抛り放しになってゐる此の可憐なる茶席は、柱や床板の一つひとつに高価な正札のつけてあるやうな富豪の茶室とは事変り、私に消極的自信をつけてくれるに十分なものがあったからだ。それで洋画家たる旭谷と、ドイツのバウハウスにゐた新建築家の山口蚊象君とに相談して早速建築をはじめたのである。鹿子木門下の洋画家ではあるが、京都に育って裏千家の茶の素養もあり、六、七十の茶席を廻って研究して斯道の大家にならんとしつつある旭谷と、分離派の新建築家ではあるが、早く茶室建築に目をつけて、ベルリンで修業してゐる間に私と茶室建築の約束をした山口君であるから、変に型にはまった茶の宗匠や、高い金をとりつけた茶室建築家と相談するよりは、余程話がつきやすいわけである。
(関口泰著「吉野窓由来」より引用)
つまり、今の「北鎌倉 宝庵」をつくりはじめるときは、遺芳庵の茅葺茶室をここにもつくりたいことからはじまったのだ。そしてそれを設計者となる山口文象にはなしたのは、ベルリンであったという。
山口文象氏がベルリンのグロピウスの下に居たのは1931年春~32年の6月、関口が
関口氏の話の遺芳庵については、山口文象氏も関口よりも前にそれを見ていて、素晴らしいデザインだと知っていた。なお、関口の文中に「バウハウスにゐた新建築家山口蚊象君」とあるが、山口氏はバウハウスに居たことはない。また名前が蚊象となっているのはその頃の自称であり、後に文象と戸籍名も変えた。
ところで、そもそも関口氏はなぜ茶席を設ける気になったのだろうか。その母方の茶道家元の家系を追ったエッセイ「宗?流の家元」(『空のなごり』所収)にこう書いている。
私の祖母が山田宗?の家から出てゐるので、私の母が一時宗徧流の家元の八世を襲ひ、不審庵十一世宗貞を名乗ってゐたことがあった。(中略)わたしはここに機会をえて、宗?の血統が微かながら残ってゐたことを記録し、私個人としては、道安好みの一畳台目どうこの席で、(中略)十一世不審庵宗貞の霊前に茶を奉ろうと思ふのである。
どうやら、血筋のゆえにやむなく宗徧流家元となり、多くの子どもを育てて茶室も道具も持たずにいた母・操への敬愛、思慕そして供養が根底にあったようだ。
2.山口文象氏と夢窓庵
関口の文中に、山口が「早くに茶室建築に目をつけて」とは、次のようなことがあったからだ。
山口文象が逓信省の製図工であった頃に、大阪市内の局舎工事現場監理の仕事で1921年から22年にかけて大阪に住んでいた。休日にはいつも京都、奈良、堺などの茶室建築を訪ねて、建物の実測をして写真を撮って研究をしたのだった。
その時に撮った多数の茶室建築の外観内観写真のプリントが、3冊のアルバムになっている。その中には高台寺の遺芳庵もある。だからベルリンで関口氏に、鎌倉に遺芳庵を持ってきたいと言われたときに、既にそれを知っていたのだ。
これがすばらしいデザインなんです。屋根のヴォリュームの大きさ、それら全体のプロポーションが実にすばらしい、その話を関口先生にしたら「じゃあ見に行こう」というわけで見に行きました。そこで決まったわけです。(『住宅建築』1977年8月号)
「丸窓の位置がなかなか決まらないので、会席のほうもずっと後れまして」ともあるから、夢窓庵の位置決めが最初であり、それを焦点として茶庭も常安軒も配置を決めたのだろう。そこにはオリジナルデザインがある。
なお、日本では有名な茶室の建物を一部あるいは全部をコピーして、別のところに建てることを「写し」といって、ごく普通に行っていたから、ここでも特に不思議なことではない。後で述べるが「常安軒」にも重要な部分に写しがある。
それにしても、ナチスの暗雲漂う1932年のベルリンで吉野太夫の遺芳庵の話とは、な
んとも粋な二人である。その年に山口氏は帰国したが、翌年にブルノ・タウトがナチスを逃れてアメリカ亡命を目指して日本にやってくるし、翌々年には山口氏の師匠のW・グロピウスがイギリスに逃れてアメリカに亡命する。
そのブルノ・タウトは日本で山口氏と何度か出会っており、この宝庵を褒めているのである。タウトは山口文象建築作品個展(1934年6月、銀座資生堂ギャラリー、右図ポスターと出展リスト参照)を観にゆき、6月15日の日記に書いている。
建築家山口蚊象氏の作品展覧会を観る(同氏はドイツでグロピウスの許にいたことがある)。作品のうちでは茶室がいちばんすぐれている、――山口氏はここでまさに純粋の日本人に復ったと言ってよい。その他のものは機能を強調しているにも拘らずいかにも硬い、まるでコルセットをはめている印象だ。とにかくコルビユジエ模倣は、日本では到底永続きするものでない。(『日本ータウト日記 1935-1936』篠原英雄訳 岩波書店刊)
タウトが書く「茶室」とは出展リストにある「茶室・北鎌倉」であり、それは関口邸茶席つまり今の宝庵のことである。ほかにも出世作の日本歯科医学専門学校など8件のモダンデザイン建築を展示したのに、タウトがほめたのは、和風のこれのみであった。
タウトの評価をどうとるか難しいが、桂離宮を称賛し日光東照宮を貶した鑑識眼でみた関口邸茶席であった。彼が日本で褒めたモダンデザイン建築は、東京駅前にある中央郵便局舎(吉田鉄郎設計)だけだったようだ。タウトは日本からアメリカへの亡命に失敗、トルコの大学に赴任してその地に客死した。
3.大工棟梁山下元靖氏と夢窓庵
この茶席常安軒の工事は、大工棟梁の山下元靖氏である。山下氏は『工匠談』(1969年 相模書房刊)という本を出しており、自分のいろいろの仕事を語っており、その中でこの茶席の想い出も35年も前のこととして語っている。
この本には、山口文象による「山下さん」という序文があり、関口氏から設計を依頼され、山下棟梁と「毎日浄智寺の現場で……けんかをしながら楽しんで仕事に没頭した」と記している。どちらも30歳そこそこの若者だった。
山下氏はその本の「北鎌倉の関口邸の茶室」という章で、常安軒については何も述べずに、夢窓庵と離れの工事についての自慢話ばかりしている。その夢窓庵の茶室について、草ぶき屋根の小屋組み仕口の仕事を茅葺屋根専門の職人から褒められたこと、吉野窓を貴人口にも使うように工夫したこと、土庇柱の沓石に寺院の向拜の沓石を転用したように古びて見せる工夫をして関口を感心させたことなど、職人肌が面白い。
窓は吉野窓にし、直径を京間の六尺の大丸窓にしました。それは貴人口にも使用する
関係で、丸窓の下部を半紙幅の半幅、つまり下から約四寸の高さのところを図のように水平に切り、掃き出しも兼用できるようにしました。
しかし、今の吉野窓を見ると、塗りまわした框が床よりもあがっているし、障子の開きは人が出入りできない寸法だから、貴人口にも掃出しにもならない。後の改変だろうか。
方形屋根のてっぺんにかぶせる陶器の甕について、山下氏はこう語る。
茶室の屋根は方形で葺き仕舞いの棟には、直径二尺の摺り鉢を使うことにし、わざわざ三州へ注文してのせましたが、それをみて施主もたいへん喜んでくれました。(『工匠談』)
ところが関口氏は、「鎌倉の骨董屋で購って来た二百年前のすり鉢の朱色もよく映って来た」(「吉野窓由来」)と書いているから、どちらが正しいのか。現在の夢窓庵の屋根頂点に乗る甕について、山口氏が「住宅建築」(1977)で言っている。
丸窓のほうの屋根に瓶がのっかっていますが、いまのやつはわたしがのせたのとはちがうんです。もっと大きかった。あれはいまあの茶席の足元にころがっている摺り鉢なんです。プロポーションからいって、いまのは小さい。
2017年12月の見学の時に床下を覗き込んだら、大きな鉢がひとつ転がっていたから、これが元の擂鉢かもしれない。破損して取り替えたのだろうか、それは榛沢氏に聞かないと分らない。
夢窓庵は茅葺である。その屋根と障子窓の大きな三角形と円形とが対になっている大胆な造形である。床面積は3坪弱なのに、屋根投影面積は8坪余り、そのうち茅葺土庇が6坪もある。丸窓のある正面から見ると、間口は1間幅なのに、屋根の軒先幅がその3倍もあり、それが四角錐をつくる。巨大丸窓はでっかち頭に対抗するためか。
今どきは茅葺屋根の維持が、なかなか難しそうである。現状を見ると、さしあたって挿し茅による修復が必要なようだ。山下棟梁もこれを建てる時に、「その頃、草ぶき屋根の葺ける専門の屋根職人は、北鎌倉の辺には六〇歳になる老人が一人しか残っていませんでした」(『工匠談』)と語っているが、現代はどうなのだろうか。北鎌倉には、浄智寺の書院と茶室、明月院の開山堂、東慶寺の山門と鐘楼、円覚寺の選佛場、長寿寺山門と観音堂など寺院に茅葺屋根が多いし、いくつかの茅葺民家もあるから、それらの維持修理の茅葺職人が今もいるのであろう。
(第3章に続く)
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